民主主義を立て直す方法:「くじ引き」について(1) ~民主主義の足掻(あが)き~
民主主義を立て直す方法として、選挙をやめ、くじ引きを導入するように提唱したダーヴィッド・ヴァン・レイブルック著『選挙制を疑う』が今、話題のようだ。
《減り続ける投票率、金や人脈がものを言う選挙戦。有力者の声しか反映されない政治に人々は背を向けるばかり。その解決策として、くじ引きで議員を選ぼうと訴えた本書は、欧米でベストセラーとなった。じっさい多くの国では陪審制や裁判員制度が実施され、アイスランドではくじで選ばれた市民が憲法改正案を策定している》(内容紹介文)
勿論、これは限定的なものであって、すべての議員をくじ引きで選ぼうと言うのではない。
吉田徹・北海道大学教授は次のように解説する。
《カナダやアイルランド、アイスランドといった国では憲法改正や選挙制度改革に際して、無作為抽出された一般市民が討議に加わり、勧告を行った。
もちろん、これはかつての抽選による民主主義の完全な再現でもなければ、現在の代表制を完全に置き換えることを目的とするものでもない。
提案されているのは、専門家を交えての討議や国民投票による追認、さらに政策領域に応じた抽選と討議方法など、実に多様かつ具体的な仕組みである》(2019/8/10付日本経済新聞)
裁判を専門裁判官だけに任せるのではなく、一般国民も直接判断に加わろうとするのが裁判員制度であったが、それを立法にも拡大しようということである。
《ポピュリズム、専門家不信、投票率低下、SNS(交流サイト)による分断など、現在の民主主義が病理を抱えていることは、衆目一致する所だろう。しかし問題の根本は民主主義そのものにではなく、その実践のされ方にある》(同)
というのがレイブルック氏の見立てであるが、民主主義信奉者には興味ある提案であろうとは思われる。
《著者は、重要な思想ほど「まず黙殺され、次に嘲笑され、最後に常識になる」という。日本でも裁判員制度導入が模索された際、法曹界を含め、百家争鳴の議論が交わされたが、10年がたった今では定着をみた。抽選制民主主義が常識になる日も、意外と近いのかもしれない》(同)
裁判員制度導入にあたっての議論は不十分極まりなく、初めに導入ありきの感が否めなかった。また、導入から10年たった今でもその必要性がはっきりしない。簡単に言えば、米国の意向には逆らえないということでしかない。
「まず黙殺され、次に嘲笑され、最後に常識になる」思想もなくはないだろうが、黙殺され、嘲笑されて終わる思想の方が遥かに多い、否、ほとんどであろうから、<くじ引き>が<常識>となることはないだろう。
例えば、他国と戦争に踏み切るかどうかを<くじ引き>で選ばれた一般国民が判断できるはずがないし、責任も負えるはずがない。否、そんな極端な話を持ち出さなくとも、日々の外交の駆け引きを一般国民が担えるわけがないのである。【続】
首相を批判するだけの他者否定の虚しさ(2) ~「悪夢のような民主党政権」の意味~
《「悪夢のような民主党政権」
(安倍晋三)首相がこう言って前政権を批判したのは2月の自民党大会だった。2日後の衆院予算委員会で立憲民主党会派の岡田克也前副総理が「政党政治において頭から相手を否定して議論が成り立つのか」と撤回を求めたのに対し、首相は「党総裁として言論の自由がある」と拒否した。
異なる意見を尊重し合わなければ議論しても意味をなさない。岡田氏はその点を指摘したのだが、首相は言論の自由に論点をすり替えた》(7月6日付毎日新聞社説)
正直どっちもどっちである。まず、安倍首相が「悪夢のような民主党政権」だったとの思いを吐露したことがこれから議論する相手を否定することになるとは思われない。裏を返せば「それまではちやほやされていたのに、下野(げや)した途端、人が離れていったあの時代が悪夢だった」と言っているだけである。
また、岡田氏は頭から相手を否定して議論は成り立たないと言いたいのであろうが、言うまでもなくそれは程度問題であって、ただ「悪夢のような民主党政権」と言われたくらいで議論が成り立たないと臍(へそ)を曲げるのは余りにも「度量」が無さ過ぎる。否、皮肉や諧謔(かいぎゃく)混じりに切り返して見せての議論家なのではないのか。
一方、<言論の自由>という抽象観念に縋(すが)る安倍首相もまた議論下手である。「悪夢のような民主党政権」という表現は、相手を否定しているのではなく、自戒の念からこのように述べているのであり、百歩譲って相手を攻撃する意味合いが感じられるにしても、それは「批判」であって決して「否定」ではないということを言葉を尽くして説明すべきである。
《国会の役割は、国民の間にある多様な意見や利害を国民の代表による議論で調整し、合意点を導き出すことにある》(同)
この認識は間違っている。国会は本来的には<国民の間にある多様な意見や利害>を議論する場ではない。複雑多岐にわたる国政問題が国民の日常生活とは乖離(かいり)し手に余るからこそ、選挙によって代表を選び、時間と情報を代表者に集中し、議論を通して物事を決めていこうというのが間接民主制というものである。
《国民の側は国会の議論を通じて必要な情報を共有し、自分たちの代表に誰がふさわしいかを選挙で判断する材料とする》(同)
これもずれている。殆どの国民には、国会の議論を検討吟味する暇もなければ情報もない、判断に足る知識もなければ興味関心もないのではないか。
本来有権者が判断すべきは国会での議論の是非ではなく、自分の選挙区に立つ候補者の人柄や人となりが自分たちの代表に相応しいかどうかである。具体的政治問題への意思表明は世論調査によって反映されており、ある意味それで充分だと思われる。【了】
首相を批判するだけの他者否定の虚しさ(1) ~公正さを欠く毎日新聞~
《参院選の公示前日、日本記者クラブ主催の党首討論会で次のようなやり取りがあった。
「私も妻も直接関わっていたという証拠は何一つなかった。しかし、その中で例えば公文書の改ざんがあった。行政府の長として大変申し訳ないと思っているし、再発は防止していかなければならない」》(7月6日付毎日新聞社説)
安倍昭恵夫人は森友学園の名誉校長であったのに、<直接関わっていたという証拠は何一つなかった>とは強弁が過ぎるように思うけれども、安倍首相が言いたいのは、森友学園が格安で国有地を購入したことに直接関わってはいないということなのであろうと思われる。
こういった会話のずれは、首相が論理を整合させて話すのが苦手であることからくると思うのであるが、論理整合的に話そうと思えば話せるのに、論点をずらそうとするのは許せないと批判するのは、ただ安倍首相の能力を買い被り過ぎているだけなのではないだろうか。
《安倍晋三首相は質問に正面から答えていない。首相の言う通り自分が直接関与していなかったとしても、両学園が優遇され、行政がゆがめられた疑惑は残る。
そうした論点は避け、自己防衛を優先した。財務省による公文書改ざんも含め、行政のトップが真相を究明して国民に説明すべきなのに、その責任には背を向けたままだ》(同)
森友・加計問題といった野党と左寄りマスコミの難癖付けにいつまでも付き合っているような暇はない。国政にはもっと大事なことがいっぱいある。政府が真相解明から逃げたという認識なら選挙結果はもっと違ったものになっていたのではないか。
確かに自民党は議席を減らしたが、それは前回の選挙で勝ち過ぎたことからくる「揺れ戻し」と考えられるのであって、むしろ問題なのは森友・加計問題で延々政府を追及してきた立憲民主党が苦戦したのは国民がこの問題にもううんざりしてしまっていることの表れであろうと思われる。
それよりも問題なのはマスコミの姿勢である。少しでも矜持(きょうじ)があるなら、どうして自分たちでもっと真相を究明しようと努力しないのか。ただ踏ん反り返って政府を批判しているだけであれば「マスコミ」ではなく「マスゴミ」である。
国有地購入を巡る疑惑の中心は安倍首相ではなく籠池泰典氏にある。おそらく籠池氏を叩けばいくらでも埃は出てくるに違いない。にもかかわらず籠池氏の問題を封印して安倍首相だけを責めるのは不公平そのものであり、このような情報操作を無反省に続けるのであれば「赤新聞」と呼ばれても仕方がない。
実際昨年末、英国紙ガーディアンが、毎日新聞がシナのプロパガンダに協力しているとも報じている(Inside China’s audacious global propaganda campaign, Fri 7 Dec 2018 06.00 GMT)。
シナが大事な広告主ということであれば、公正な記事が書けるわけがないのである。【続】