保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

LGBTQの割合は「13人に1人」ではなく「3%」

《性の多様性を祝福する祭典「東京レインボープライド」(4月28・29日)が開催中だ。これに先立ち、LGBTQをはじめとする性的マイノリティーに該当するのは3%程度だという調査結果(速報)が発表された。

これまでLGBTQは「13人に1人」とも言われてきたが、信頼性の高い調査で数字が下方修正されたかたちだ》(HUFFPOST4/29(月) 15:24配信)

 私は3%でも高いという気がするが、それは一旦措いておこう。取り敢えず今回の数字によってLGBT運動が少し減速されるであろうことを望むだけである。

《これまで、LGBTQの割合は「13人に1人」と言われてきた。

根拠となっていたのは、「電通ダイバーシティ・ラボ」が2015年に行ったインターネット調査だ。20~59歳の6万人を対象に「体の性別」「心の性別」「好きになる性別」を質問し、LGBTQの割合が7.6%だと結果が出た。

電通は同様の調査を2012年と2018年にも行っている。2012年は5.2%、2018年は8.9%で、LGBTQの割合は少しずつ増えている。

電通によると、この調査の回答者は、調査会社のモニターの中から抽出した60000人。母数がモニターに偏っているが、日本ではLGBTQの割合を示す研究が他になかったため、報道や企業などがLGBTQに関して言及する時にはこの調査が論拠とされてきた。

「13人に1人」という数字が、性的マイノリティーに関する理解や政策を押し上げてきた一方、懐疑的な視点も常に付きまとってきた》(同)

 「心の性別」や「好きになる性別」などというはっきり定義されない内容を問うてどういう意味があるのだろうか。人間誰しも男性的な側面もあれば女性的な側面もある。置かれた環境によって男性的に振る舞わねばならないこともあれば女性的に振る舞わねばらならないこともある。にもかかわらず、あなたの「心の性別」は何ですかなどと問うてどういう意味があるのかさっぱり分からない。そしてはっきり男なら男、女なら女と言えなければLGBTだなどと言われても困惑するだけである。

《「国立社会保障・人口問題研究所」の研究グループが大阪市の協力を得て行った調査。今年1月、無作為に抽出した大阪市内の18歳から59歳、1万5000人にアンケートを送り、4285人から回答があった(有効回収率28.6%)。

調査では性自認性的指向(性愛感情を抱く相手の性別)を質問。

性的指向では「異性愛者」「同性愛者(ゲイ・レズビアン)」「両性愛者(バイセクシュアル)」のほかに、誰に対しても性愛感情を抱かない「無性愛者(アセクシュアル)」と「決めなくない・決めていない」「質問の意味がわからない」という選択肢も設けた。

この結果、「ゲイ・レズビアン・同性愛者」は0.7%、「バイセクシュアル・両性愛者」は1.4%、「アセクシュアル・無性愛者」と回答したのは0.8%だった。「異性愛者」は83.2%で、「決めたくない・決めていない」も5.2%に上った》(同)

 これが妥当な数字かどうかは分からない。が、3%程度の人たちが、本来は「秘め事」に属するようなこと、そしてその権利を声高に主張するのが私には理解出来ないのである。

 勿論私は小さな声の少数者は見捨ててよいなどと言いたいわけではない。が、少数者は少数者なりに、数を水増ししたりなどせず、たとえ小さな声であっても、しっかりと筋道立てた話を粘り強く語り続けることこそが大切なのではないかと思うだけである。

日本国憲法と天皇制(3) ~天皇の真の有難み~

阪神大震災東日本大震災などの災害をお見舞いし、被災者を励ます。膝を折り、被災者に寄り添う姿は、陛下の時代から生まれた新しい象徴天皇の姿だったといえる》(4月27日付東京新聞社説)

 これが<象徴天皇>というのなら、一体何を<象徴>しているというのか。

 万世一系の歴史伝統を「象徴」するのが「天皇陛下」だと私は考えるが、おそらく天皇制廃止論者たちは、天皇を権力なき<象徴>に押し込め、主権者たる国民への奉仕活動を<新しい象徴天皇の姿>などと称しているのである。

 が、こういった奉仕活動は天皇本来の活動ではない。天皇の最大の責務は<日本国の象徴><日本国民統合の象徴>としての「権威」を保つことでなければならない。が、「慰問」や「慰霊」のために、国民の前に姿を晒(さら)せば、国民との親近感は増すだろうが神秘性は減ずる。よって象徴として必要不可欠な「権威」という点から見れば決して好ましいこととは言えないのである。

天皇は国家最高の公僕である、という者がある。また、天皇は一種の公務員である、という者がある。この思想は、マッカーサー支配の当時、司令部によって支持され、あたかも新しい民主主義的天皇観であるかのごとく言いはやされ、かつて某皇族殿下までが、そのようなことを印刷物の中に書かれたことがある。まことに笑うべき顛倒(てんとう)の妄見(もうけん)といわねばならぬ。

 天皇は、法上、明々白々、日本国の君主であり、元首である。君主たり元首たる者は一国の尊厳を固有の身分と地位とによって体現している特定の尊厳なる人を指す概念であって、君主から尊厳性を引き去ったなら、君主の存在は無意義になってしまう。

 親しめる天皇とか愛される天皇とかいう言葉も戦後一部で用いられ、当時の険悪な国情の中で天皇観に一つの新鮮なニュアンスを与えたのは事実であり、親しみ、愛情ということの大切であるのも言うまでもないところであるが、しかも、天皇観の本質は、依然、尊厳性にある。 いかに親しめても、愛しえても、尊厳性のないところに天皇の意義はない。

 ところが、公僕だの公務員だのという見方は、民主主義というよりは、むしろ冺(びん)主主義であって、天皇から尊厳性を抹殺したところの思想で、軽薄というも愚かの極みである》(里見岸雄天皇とは何か』(展転社)、pp. 94-95)

 「冺」とは「ほろびる」ということであるが、天皇への畏怖や敬意がなくなれば、天皇天皇でなくなってしまう。そうなれば我々は国の統合の軸を失うことになる。

 国の軸を持たぬ他の国々がどれほど国家統合に苦労しているのかを知らぬ日本人には分からないのであろうが、我々が安心安全に暮らせる大本(おおもと)が天皇の存在であることをしっかり確認し理解しておくことが必要なのではないか、私はそう思う。【了】

日本国憲法と天皇制(2) ~日本人の心から消えゆく天皇~

天皇にはまず象徴という地位があると考えるしかない。「象徴としての行為」とは、それを具現化するためのいとなみである。だから憲法に規定はないが、国事行為とも私事とも異なる重要な公的行為が「象徴としての行為」となる。具体的には国民に寄り添い、苦楽をともにする-。例えば各地の被災地を見舞い、アジアの各国を慰霊のために旅をする-。そのような行為の姿である》(4月27日付東京新聞社説)

 が、この「象徴としての行為」は果たして必要なのだろうか。慰問にせよ慰霊にせよ非常に有難いものである。が、この有難さは「象徴としての行為」を繰り返せば繰り返すほど減少する。有り難いことが当たり前になってしまうからである。

 天皇の存在は「象徴としての行為」を通して国民の支持を得ることによって成り立っているものではない。あくまでも歴史伝統の重みの上に成り立っていることを忘れてはならない。

 天皇の本務は「祈ること」である。祈りを通し英魂と繋がればこそ天皇尊い存在となられるのである。

《国内のどこにも天皇の姿が現れなくなったら…。国民の視界から天皇は消えてしまい、国民は象徴として考えにくくなる。だから、「象徴としての行為」こそ重要なのである。陛下が実践された旅する天皇像こそ象徴性を支えていると考えるのが自然ではないか》(同)

 が、「目に見える存在」だけが天皇なのではない。広大なる宇宙から見た天皇は小さな存在にすぎない。が、「目に見えない存在」、つまり、「心の中の天皇」は無限大の広がりを持つ誠に尊い存在と成り得る可能性を秘めている。

 金森徳次郎国務相は、帝国憲法改正案審議(昭和21年8月24日)において次のように述べている。

《私は天皇の本當の御地位は我々の心の根柢との繋りに於てあるものである、敢て一片の法律を以て作り得るものでもなく、法律を以て消し得るものでもない、日本民族の熱烈なる血液が流れて居る限り、我々の全精神との繋りに於て天皇の御地位がはっきりと国民の心の中に在るのであるし、又遡(さかのぼ)って見れば歴史の中にはっきり現れて居る、其の基本の考を堤えて言えば、是が即ち日本の本當の姿ではないか、

それの本當の姿と言えば、それは即ち國體と云う言葉を一つの意味として言い表し得るのではないか、且(かつ)又國民が常識的に國體と言って居る其の姿ではなかろうか、此の前提の下に此の國體と云うものは日本國民の心の奥深く持って居る其の天皇との繋りと云うものに於て日本民族と云うものは結成せられ、それに基いて國家が出来て居る、其の特色を言うのである》(第90回帝国議会貴族院議事速記録第24号)

 戦後日本人は、心の中に天皇を見ることが出来なくなってしまった。それは我々が目に頼り過ぎているからなのか、それとも心が曇ってしまったからなのか。【続】