保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

就労外国人受け入れについて(1)~どうしてこんなに急ぐのか~

2日、外国人労働者の受け入れを拡大するために出入国管理法改正案が閣議決定された。

《法案はこれまで認めてこなかった単純労働を容認し、実質的な永住にも道を開く内容だ。国の形を変え得る政策の大転換であるが、政府は受け入れ規模の見通しや対象職種をどこまで広げるか、肝心の部分さえ明確にしていない。

 来年4月からの実施を目指すというが、なぜそんなに急ぐ必要があるのか。態勢を整えないまま踏み切れば社会に混乱が起き、将来に禍根を残そう》(11月2日付産經新聞主張)

 <なぜそんなに急ぐ必要があるのか>私もさっぱり分からない。野党がまったく頼りにならず、はたまた与党も異論反論が、そもそも立論がか弱いからか、封じ込まれてしまっており、政権のお目付け役を十分に果たせていない。行政府と立法府の「抑制と均衡」が機能していない。そのため「政権権力」を不要に権力化してしまってはいないか。

Power tends to corrupt, and absolute power corrupts absolutely.―Load Acton

(権力は腐敗しがちだが、絶対的権力は絶対に腐敗するーアクトン卿)

《働き手世代が激減していく。将来的に総人口のかなりを外国人が占める状況も想定せざるを得ない。

 目先の労働力不足解消には一定の効果を期待できよう。だが、景気動向などで仕事量は変動する。正社員になれない日本人も多い中、全体の賃金水準が押さえ込まれる方向に進まないか。景気悪化で仕事がなくなっても帰国しない問題などにどう対応するのか。

 社会保障の備えはあるか》(同、産經

 日本が日本である限り、いくら外国人が増えようとも問題はない。日本の決まり仕来りにしたがって貢献してもらえるのであればこれほど有難いことはない。問題は、外国人が増えることによって日本が日本でなくならないかという心配である。

 かつて「日本列島は日本人だけの所有物じゃない」と宣(のたも)うた首相経験者もおられたが、日本の独自性を障壁として否定することによって外国人を呼び込むようなことだけはあってはならない。

 さて、<働き手世代が激減>すれば、その穴を外国人によって埋めようと考えるのは短絡的であろうと思われる。ロボットもあればAIもある。単純労働がこれらに取って代わられる時代はそう遠くないと予想される。であるなら、少し待てば人手不足の問題は問題でなくなってしまうに違いない。

 さらに言えば、日本の産業が、経済が成熟するにつれて、もっと付加価値の高いものに移行すれば、単純労働における人手不足の問題は自ずと解消されるのであるから、産業構造の転換こそ優先すべき課題なのではないかと思われる。【続】

「対外侵略のイデオローグ」に祭り上げられた吉田松陰(3)~松陰と安倍首相を同列に論ずる勿れ~

松陰は危険人物だ、その危険人物の言をしばしば引用する安倍晋三首相も同様に危険人物だ、という論法らしい。その類推(analogy)は当たらずといえども遠からずの感が無きにしも非ずではあるが、松陰の危険性と安倍首相の危険性は少し異なるように思われる。

 今の日本語では「TPO」(時・所・場合)という言葉が使われるが、古くは儒学者中江藤樹が「時処位(じしょい)」と言っていた。

《儒書に載せてある礼儀作法を少しも違えずに全部残さず取り行なうのを、儒道を行なうと考えるのは大きな誤りである。たとい儒書に載せてある礼法を少しも違えずにみな実行しても、その行なう事柄が、時・所・位に相応し適当し合致する道理がなければ、儒道の実行ではなく異端の行為である》(中江藤樹『翁問答』下巻之末『日本の名著11 中江藤樹 熊沢番山』(中央公論社)山本武夫訳、p. 143)

 かつての松陰と今の安倍首相ではこの「時処位」が異なる。したがって、「千万人と雖も吾往かん」の意味合いも同じではない。甘いことを言っていては日本は欧米列強の植民地にされかねないと危機感を覚えた松陰と、米国に守られ安逸(あんいつ)を貪(むさぼ)ってきた戦後日本における安倍首相を同列に論じるわけにはいかない。

 最後に、幾つか私の目に留まった松陰の名言を見ておこう。

《宜しく平日に議論して、時に臨みて誤ることなかれ》(講孟箚記)

((重要な問題は)何もない平穏無事な時に議論しておくべきである。いざという時に臨んで、判断をまちがえることのないように)

私見]平穏無事だから国会で森友・加計問題で遊んでいてよいということにはならない。憲法にせよ、経済にせよ、福祉にせよ、教育にせよ、冷静に話し合える今こそ議論すべき問題はいくらでもある。

《天下の大患(たいかん)は、其の大患たる所以(ゆえん)を知らざるに在り。苟(いやしく)も大患の大患たる所以を知らば、寧(いずく)んぞ之れが計を為さざるを得んや》(恐夫の言)

(世の中の大いに憂うべきことは。国家が大いに憂慮すべき状態にある理由をしらないことにある。仮にその憂慮すべき事態になる理由を知れば、どうしてその対応策を立てないでいられようか。立てるべきである)

私見]例えば、日本国憲法は「大患」の1つであろう。日本を骨抜きにするために作られた「占領基本法」をいまだ後生大事に憲法として戴いているのは奇々怪々でしかない。自衛隊憲法に明記するかどうかといった本質とかけ離れた話しか出てこないのは、まさに「平和呆け」としか言い様がない。

《太平の気習として、戦は万代の後迄もなきことの様に思ふもの多し、豈(あ)に嘆ずべきの甚しきに非ずや》(将及私言)

(平和な時代の気持ちや雰囲気として、戦争は永遠にないことのように思っている人が多い。なんと嘆くべきことではないか)

私見]平和だから何もしなくてよいのではない。戦争にならないように万全を期すことが平和を守るためには不可欠である。平和を守るための対策であるのに、「軍靴の跫(あしおと)が聞こえる」などといってこれを邪魔をする人達がいるのは嘆かわしいばかりである。【了】

(参考文献)川口雅昭著『吉田松陰名語録』(致知出版社

      川口雅昭編『吉田松陰一日一言』(致知出版社

「対外侵略のイデオローグ」に祭り上げられた吉田松陰(2)~松陰を過大に危険視するのはなぜか~

《何といつても彼(=松陰)は、外國の情勢に對して目隠しされてゐた鎖國時代の一田舎侍に過ぎない。その上彼は二十代を殆んど幽囚の境遇の下に過してゐる。その接し得る資料、従つてその客観的認識は、今日の小學生にも劣るであらう。それに「攘夷」といふ建前は、その尊皇ファナティシズムからいつて降ろすことの出來ない看板である。

儒學、殊(こと)に徳川の御用學的朱子學からいつての、意識下にある夷狄(いてき)への蔑視、又その侵略への脅威、それは松陰の異國觀に一貫した根本的感情である。それを取り上げ纏(まと)めて一つの人生觀にしたらかなり迂遠偏狭な、そしてわが國に明治以後までよく見かけられた紅毛(こうもう)嫌ひが出來上る。それに松陰を倣(なぞ)らへることは、可能だけど、然(しか)しそれでは彼の人物は歪められることになる。

 然し又、その反對の見方も可能であり、殊に戦後の松陰論によく見かけられるものである。即ち開明論者としての松陰であり、大いに世界に眼を開いてこれに學ばうとした先覺者だといふのである。勿論そこにはかなりの限定がつくのだが、この方が彼の志(こころざし)全髄(体)の向ふところから見て、より妥當(当)だといふことは一應(応)いへよう》(河上徹太郎吉田松陰』(文藝春秋)、pp. 117-118)

 松陰は、圧倒的に情報が不足していたのである。だから、彼の構想をあまり過大に評価すべきではないだろう。にもかかわらず、松陰をどうしても「対外侵略のイデオローグ」に仕立てなければ気が済まない人達がいる。

《弟子たちの明治日本は、師の予言をなぞった。北海道開拓、樺太領有、琉球処分、台湾・朝鮮植民地化、満州事変、フィリピン占領。誤った先見性に息をのむ》(伊藤智永『時の在りか』「明治150年 何がめでたい」:2018年1月6日付毎日新聞

 松陰を過大と思えるほど危険視するのは、例えば、松陰を持ち上げる安倍晋三首相のような人達を叩くためであるような気がしないでもない。

《わたしが政治家を志したのは、ほかでもない、わたしがこうありたいと願う国をつくるためにこの道を選んだのだ。政治家は実現したいと思う政策と実行力がすべてである。確たる信念に裏打ちされているなら、批判はもとより覚悟のうえだ。

「自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば千万人といえども吾ゆかん」―わたしの郷土である長州が生んだ俊才、吉田松陰先生が好んで使った孟子の言葉である。自分なりに熟慮した結果、自分が間違っていないという信念を抱いたら、断固として前進すべし、という意味である》(安倍晋三美しい国へ』(文春新書)、p. 40)

 <わたしがこうありたいと願う国をつくる>。確かに危険な匂いがする。【続】