保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

8月15日「終戦記念日」社説を読む(37)河北新報社説

終戦から78年。今、「新しい戦前」とも言われる。昨年末のテレビで、タモリさんが口にしたことでも知られる。

 岸田文雄政権は昨年12月、安保関連3文書を閣議決定した。反撃能力(敵基地攻撃能力)保有を明記し、専守防衛を大きく変容させ、本年度から5年間の防衛費総額を約43兆円にまで引き上げた。

 安倍晋三政権の集団的自衛権行使容認に続く安保政策の大転換だが、政権を揺るがす大きな反対のうねりは起きなかった。十分な論議なきままでの決定にもかかわらずだ。(河北新報終戦記念日 「戦後」であり続けるために」)

 岸田政権に安保問題を考える能力はないし、安保政策を大転嫁できるだけの度量もないし、そのことを国民に説得できる力量もない。ただ米国の命令に従ったまでである。

 米国の命令だからこそ与野党のみならずマスコミも批判することが出来ない。今の日本はそこまで腑抜(ふぬ)けになってしまっているのだ。

 世界の情勢、厳しさを増す安保環境が、国民の現実的危機感を強めているのは確かだろう。だからこそ、私たちは今、歴史の反省から戦後日本が築き、守ってきた「平和国家」の理念を胸に刻みたい。(同)

 <危機感>が高まっているのなら、どうして国会で安保問題をしっかり議論しないのか。どうしてマスコミは、連日のごとく「旧統一教会問題」で現(うつつ)を抜かしていたのか。実際は、日本は、そして国民は、「平和」の中で惰眠(だみん)を貪(むさぼ)っいるだけではないか。

 <歴史の反省>というのもよく分からない。「歴史」は、固定化されたものではない。過去からどのような「史実」を取り出し、それをどのような流れの中で捉えるのかは解釈する人によって異なる。が、「歴史解釈」が人それぞれでは公に「反省」することなど出来ない。

 そもそも無数の過去の出来事から解釈に値するであろう出来事を拾い出すこと自体が千差万別であり、これを「史実」として認めるかどうかも主観的なものであろうから、「歴史」を固定化することが出来るはずもない。また、一群の「史実」をどのような角度、距離感で見るのかで見える景色も変わってくる。

安倍政権は特定秘密保護法を成立させ、集団的自衛権の行使容認は閣議決定による憲法解釈の変更という手口を用いた。菅義偉前首相の日本学術会議の会員任命拒否も、過去の反省を忘れたかに映る。目立つのは強引な手法、「法」と民主主義プロセスの軽視だ。(同)

 集団的自衛権行使容認を閣議決定したことは、当時のきな臭い状況からは致し方なかったと私も考えているが、これは正規の手続きを踏んだものではないから、事後であれ国会での承認を得ることが必要であった。それをやらなかったのは、国会の問題であるし、それを批判しなかったマスコミにも責任はある。

 野党やマスコミは、安倍政権が閣議決定解釈改憲を行った手続きだけにこだわっているが、結果として、この決定を野放しにしてしまっては、承認したのも同然である。手続きだけを問題にし、結果を放置し続けたことが、解釈改憲を有効にしてしまったということをよく考えて頂きたい。【了】

8月15日「終戦記念日」社説を読む(36)信濃毎日社説

78年前の夏―。世界には2つの重い現実があった。

 1つは、戦争であまりにおびただしい命が失われたこと。悲惨な現実を受け、武力行使禁止を原則とする国連憲章戦争放棄を記した日本国憲法が生まれた。

 もう1つは、米国による広島、長崎への原爆投下だ。覇権を争う旧ソ連との間で核開発を競う戦後の構図がこの時、固まった。(信濃毎日新聞「戦争の正体を見極めねば 抑止論高まる日本」)

 先ず、78年の夏、すなわち、1945年の夏、戦争で夥(おびただ)しい命が失われたのではない。大東亜・太平洋戦争が終わったのである。命が失われたのは、1941年以降の長期にわたる戦闘においてである。

 <悲惨な現実を受け、武力行使禁止を原則とする国連憲章戦争放棄を記した日本国憲法が生まれた>と言うのもよろしくない。そもそもThe United Nationsを「国際連合」(国連)と訳していること自体が欺瞞(ぎまん)なのだ。UNは、戦勝国側が作った「連合国」である。連合国憲章第2条4項には次のようにある。

All Members shall refrain in their international relations from the threat or use of force against the territorial integrity or political independence of any state, or in any other manner inconsistent with the Purposes of the United Nations.

(すべての加盟国は、国際関係において、いかなる国の領土の保全又は政治的独立に対してであれ、武力又は連合国の目的に合わない方法で威嚇したり、それを行使したりしてはならない)

 <連合国の目的>という箇所が引っ掛かるが、今は措(お)く。いずれにせよ、「武力行使」は、refrainせねばならないとなっており、これを「禁止」と読むのは、戦後日本の平和主義者による希望的な解釈に過ぎない。つまり、「武力行使」は、抑制的であらねばならないと言っているだけで禁じられてはいない。戦後も世界で戦争や紛争が絶えない。が、好戦国はこれでも自制しているのだ、UN憲章に違反していないと強弁するに違いない。

 日本国憲法の<戦争放棄>も大戦の反省によるものではない。連合国軍最高司令官マッカーサーが、日本を骨抜きにするためにマッカーサーノートに記したことに過ぎない。

戦勝国は戦争をやめなかった。戦争は政治と外交の延長であり、手段であり、目的が正しければ遂行される―。古典的な戦争論が根強く残った。(同)

 連合国憲章第2条4項もそのように読める。

 平和には均衡する武力が不可欠だとの逆説(抑止論)で核保有を正当化。そんな「現実」論が大手を振り、軍拡は果てがない。(同)

 確かに、「核抑止論」とは核保有を正当化する理論に他ならない。が、核戦争を防ぐのにそれ以外の有効な方法はどこにも見当たらない。「核廃絶」などという危険思想に染まっている人達が少なくないようだが、核が廃絶された暁には、最初に核を手にした者が世界の覇権を握るという恐怖が世界を覆うようになる。核廃絶という悲願が達成されれば、平和な世界が永遠続くなどということは只の「夢物語」に過ぎない。

8月15日「終戦記念日」社説を読む(35)西日本社説その9

「タコツボ」云々(うんぬん)が丸山眞男氏の観念論だとすれば、半藤氏の言う<日本型のタコツボ社会>も「空想」と言うしかない。<小集団主義>も、おそらくは、軍部が暴走したことにしたい半藤氏の願望が生み出した「空想」だろう。ここに<主義>と呼称できるほど、何か具体的な思想があったとも思われない。半藤氏のそれらしい話には、「眉に唾を付ける」必要がある。

 岸田文雄政権は安保関連3文書を国民の合意形成抜きに閣議決定しました。同じ手法で憲法解釈を変更した安倍晋三政権時代から続く国会軽視の姿勢に、暴走したかつての小集団主義との相似性はないか。政治家は立ち止まって考えるべき時です。(西日本社説)

 安倍政権が集団的自衛権行使容認を閣議決定したのは、喫緊(きっきん)の「周辺有事」に備えてのことだった。つまり、国会での議論を省いてまで解釈改憲を急いだのは、それほどきな臭い状態にあったということだ。

 岸田政権が安保関連3文書を閣議決定したのも米国の指示命令によるものであろう。現実政治が分かっていない岸田氏が独自にこのような動きに出るとは思われないからである。ここに戦前との<相似性>などない。ここに<暴走したかつての小集団主義>を感じるのは、自虐史観に呪縛されているからであろう。

 いま岸田政権は安倍政権以来の「積極的平和主義」の大義の下、武器輸出条件の緩和にも前のめりです。学習院大大学院の青井未帆教授(憲法学)は論文で、戦後日本の平和主義が「武力によらない平和が念頭に置かれていた」のに対し、積極的平和主義は「軍事力を背景にしたそれである」と指摘します。平和主義の変容を看過してはなりません。(同)

 戦後、日本が戦争に巻き込まれなかったのは、米軍が睨(にら)みを利かせていたからだと言うべきであろうが、単なる「偶然」だったとも言えるだろう。が、いずれにせよ、今やシナ(China)は、尖閣諸島に攻め込むに足る軍事力を有するに至っているし、米国もかつてのような圧倒的な国力がなくなり、いつ何時日本から撤退するとも言い出しかねない。否、その前に、日本に対し「安保只乗り」は止めろと、米軍の肩代わりを求めて来るに違いない。日本にこれを拒否する政治力があるとは思われない。

 先日、自民党麻生太郎副総裁が台湾で講演し、中国を念頭に日米や台湾に「戦う覚悟」が求められていると強調しました。しかし地域の安定が揺らいでいるからこそ、日本が世界に語るべきは東アジアでの戦争を防ぎ、共存共栄を実現する決意です。(同)

 だからこそ、シナが台湾に侵攻することを思い留まらせることが必要なのであり、麻生発言は台湾有事を抑止するものだったと考えるべきではないか。力が均衡しておれば、安易に戦いに打って出られないからである。

 時代が変わっても、平和憲法を持つ日本が希求すべき国家像は、再び戦争をせず、他国にもさせない国ではないでしょうか。(同)

 ではどうやって? 戦後日本の平和主義者は、いまだ白昼に堂々とこのような空虚な夢を見続けている。無責任なことを口にするのは、義務教育までにしてもらえないだろうか。