保守論客の独り言

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東京五輪に沸く日本人を批判する芥川賞作家・平野啓一郎氏(2) ~日本人を見下す「私の目」~

《真の罪の文化が内面的な罪の自覚にもとづいて善行を行なうのに対して、真の恥の文化は外面的強制力にもとづいて善行を行なう。恥は他人の批評に対する反応である。人は人前で嘲笑され、拒否されるか、あるいは嘲笑されたと思いこむことによって恥を感じる。いずれの場合においても、恥は強力な強制力となる。ただしかし、恥を感じるためには、実際にその場に他人がいあわせるか、あるいは少なくとも、いあわせると思いこむことが必要である》(ルース・ベネディクト菊と刀』(講談社学術文庫)長谷川松治訳、p. 273)

 本書を受け、法社会学の泰斗(たいと)・川島武宣(たけよし)は次のように述べた。

《本書に描かれまた分析されたわれわれ自身の生活は、まさにわれわれのみにくい姿を赤裸々に白日の下にさらすものであって、われわれに深い反省を迫ってやまない》(同、「評価と批判」、p. 390

 川島氏は、自らもこの醜い日本人の一人だと思っていたのであろうか。それとも戦後進歩的文化人という「高み」から半ば他人事として日本人を蔑(さげす)んだのであろうか。

《かつて漢学を学んだ日本人は「俯仰不愧天地(ふぎょうてんちにはじず)」と言い、仰いで天に対し伏して地に対し恥じない、という孟子の道徳規範を良しとした。

 儒教由来のこの訓(おし)えは武士の胸に刻まれたが、それは曲がったことはしたくない、という日本庶民の心根とも合致したから、人口に膾炙(かいしゃ)した。それはまた清らかさを尊ぶ神道由来の日本人の美意識とも重なった。恥ずべきことをしてはお天道(てんとう)さまやご先祖さまに相済まぬ、という感覚を日本人は、士族にかぎらず、分かち持ったし、いまでも分かち持っている。

 そのように天を畏れて身を処する人は、世間の義理を欠くことを惧(おそ)れて、外的強制力の下にのみ行動する人ではない。他人が見ていようがいまいがきちんと身を持する人は「罪の文化」の人でもなければ「恥の文化」の人でもない。日本人はそうと自覚せずとも実は先祖代々の「神道の文化」に従っている人である》(平川祐弘:2017年8月21日付産経新聞「正論」)

 話を平野啓一郎氏のツイートに戻そう。

《開催国が思いきり有利な状況下での大会で、コロナで非常に困難な状況で参加している国も多々あるのに、せめて日本の「メダルラッシュ」などとはしゃがないとか、国別の順位の表示はしないとか、そういう最低限の慎みさえないのか。恥》(7月28日付ツイッター

 が、ベネディクト女史も言うように、<恥は他人の批評に対する反応である>。五輪で沸き立つ日本人を恥ずかしいと思うのは日本人から懸け離れた自分自身である。

 <恥の文化>において基準となるのは世間体(せけんてい)という「公の目」である。一方、平野氏の言う<恥>の基準は日本人を見下ろす「私の目」である。前者には「謙虚さ」があり、後者には「高慢さ」がある。【続】