保守論客の独り言

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東京五輪に沸く日本人を批判する芥川賞作家・平野啓一郎氏(1) ~日本を批判せずにはおれない習性~

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  何とも斜に構えた物言いだが、平野氏には、日本を批判せずにはおれない「心性(しんせい)」があるのだろう。

 東京大学名誉教授・平川祐弘(すけひろ)氏は言う。

《わが国は昔は大陸から、明治後は西洋から、文化を取り入れた。それが昭和前期には日本のみを尊しとする夜郎自大の言動や行動も見られた。敗戦を機に今度はそれが逆転し、日本を悪く言えばそれがあたかも正義であるかのような論調となり、一部の学者先生は旧日本をあしざまに言うことで論壇のヒーローとなった。その知的倒錯の度が過ぎて、人民民主主義万歳を叫ぶ人も出た。

 だが幸いわが国は文化大革命をやらかすような野蛮国にならずにすんだ。そんな20世紀後半の世界史の有為転変にもかかわらず、わが国の論壇では日本を悪く言えば格好がいいと心得る人が今もなお結構いらっしゃる》(平川祐弘「すがすがしい神道文化の中で育った日本人であること、誇りにこそ思え卑下するつもりはない」:2017年8月21日付産経新聞「正論」)

 さて、平野氏のツイートで気になったのは「恥」という言葉である。

 米国の文化人類学ルース・ベネディクト女史は、日本を「恥の文化」と称した。

《さまざまな文化の人類学的研究において重要なことは、恥を基調とする文化と、罪を基調とする文化とを区別することである。道徳の絶対的標準を説き、良心の啓発を頼みにする社会は、罪の文化(guilt culture)と定義することができる。

しかしながらそのような社会の人間も、たとえばアメリカの場合のように、罪悪感のほかに、それ自体はけっして罪でないなにかへまなことをしでかした時に、恥辱感にさいなまれることがありうる。

たとえば、時と場合にふさわしい服装をしなかったことや、なにか言いそこないをしたことで、非常に煩悶(はんもん)することがある。恥が主要な強制力となっている文化においても、人びとは、われわれならば当然だれでも罪を犯したと感じるだろうと思うような行為を行なった場合には煩悶する。この煩悶は時には非常に強烈なことがある。しかもそれは、罪のように、慨悔(ざんげ)や贖罪(しょくざい)によって軽減することができない。

罪を犯した人間は、その罪を包まず告白することによって、重荷をおろすことができる。この告白という手段は、われわれの世俗的療法において、また、その他の点に関してはほとんど共通点をもたない多くの宗教団体によって利用されている。われわれはそれが気持ちを軽くしてくれることを知っている。恥が主要な強制力となっているところにおいては、たとえ相手が懺悔聴聞僧であっても、あやまちを告白してもいっこうに気が楽にはならない。それどころか逆に、悪い行ないが「世人の前に露顕」しない限り、思いわずらう必要はないのであって、告白はかえって自ら苦労を求めることになると考えられている。

したがって、恥の文化(shame culture)には、人間に対してはもとより、神に対してさえも告白するという習慣はない。幸運を祈願する儀式はあるが、贖罪の儀式はない》(ルース・ベネディクト菊と刀』(講談社学術文庫)長谷川松治訳、pp. 272-273​【続】​