《広島高裁は18日、四国電力の伊方原子力発電所3号機(愛媛県)に出していた運転停止の決定を取り消した。
(中略)
一方、水戸地裁では同日、日本原子力発電の東海第2原発(茨城県東海村)の運転差し止めを命じる判決が下された》(3月19日付産經新聞主張)
司法のこの右往左往振りは何なのか、と思わざるを得ない一方で、そうさせているのが国民なのだということを忘れてはならないだろう。原発再稼働を巡る司法判断に賛成派も反対派も一喜一憂する。この世論に司法は振り回されているということだ。
《(広島高裁)裁判長は、専門家の間でも見解が分かれる将来予測に対し「独自の科学的知見を有するものでない裁判所」が「具体的危険があると事実上推認するなどということは相当でない」とした。
原発の安全性をめぐる高度な理学や工学と司法の距離の置き方についての分別ある見識だ》(同、産經主張)
確認しておくべきは、裁判官が自分の専門外のことに口を挟むべきではないから運転停止の決定を取り消しただけであって、原子力規制委員会の判断が適正なものであったかどうかは別次元にあるということである。今回の運転停止決定取り消しが原子力規制委員会の判断にお墨付きを与えたわけではないことは言うまでもない。
《「リスクは大げさに考える」。危機管理の要諦だ。いわんや原発の場合、いったん事故が起これば破局につながりかねない。それが福島第一原発事故の重い教訓ではなかったか》(3月20日付東京新聞社説)
「リスクは大げさに考える」とは語るに落ちたと言うべきか。本当は大したことと思われなくても<大袈裟に考える>。それが反対派の遣り口である。危機管理の鉄則とは、最悪の事態を想定することではあっても、<大げさに考える>というようなものではない。このような考え方では日常生活もままならぬものになってしまうに違いない。
《避難計画にしろ、地震の揺れや火山噴火の影響にしろ、破局につながるリスクがそこにある限り、原発は動かすべきではない。
住民の安全最優先。「疑わしきは動かさず」とする大原則を司法は確立すべきである》(同)
「原発事故は<破局>となりかねないから「ゼロリスク」を課せ」とは何と短絡的な考え方であることか。そもそも<破局>という言葉の意味がよく分からないが、「ゼロリスク」などというものはこの世に存在しないから、要は、原発再稼働は相成らぬと言っているに等しい。
《政府のお墨付きがあれば、よほどのことがない限り司法は口を挟まない―。事故前に最高裁が示した「安全神話」に戻ったようだ。政府に任せた結果、事故は起きた。過ちを繰り返さないためにも、行政とは独立した立場でのチェックが必要である。事故の教訓から目を背け、司法として果たすべき役割を放棄する判断は許されない》(3月20日付中國新聞社説)
中國社説子は「三権分立」というものが分かっているのだろうか。政府のお墨付きがあろうとなかろうと、司法は司法の領域において物申すのである。司法が政府に任せたから事故が起きたというのも当を得ない。政府に任せられないから司法の領域を踏み越えて物申さねばならないなどと考えているとすれば、とんでもないことである。【続】