保守論客の独り言

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藤谷イタリア学会会長の菅首相批判について(1) ~的外れの声明~

イタリア学会の藤谷道夫会長が「日本学術会議会員任命拒否についてイタリア学会による声明」を出し、菅義偉首相を批判した。これを東京新聞は、

日本学術会議の会員任命拒否をめぐるたくさんの抗議声明の中で、博識に裏打ちされた豊かな表現で異彩を放っていたのが、イタリア学会の声明だった》(東京新聞2021年1月5日06時00分)

と持ち上げる。が、私にはこの声明文が的外れにしか思われない。

日本学術会議が推薦した第25期会員候補者105名のうち、6名が菅総理によって任命されなかったことについて、明確な理由説明はなく、説明の要求を斥けることは学問の自由の理念に反すると同時に、民主主義に敵対するものであり、これに断固として異議を唱えます》(「日本学術会議会員任命拒否についてイタリア学会による声明」)

 複雑な言い方をしているので的を絞り難いのだが、おそらく任命拒否の理由を説明しないことを問題にしているのだと思われる。が、だとすれば、どうしてそれが<学問の自由の理念に反する>のかが分からない。

菅首相は「(学術会議の会員は)広い視野を持ち、バランスの取れた行動を行ない、国の予算を投じる機関として国民に理解されるべき存在であるべき」だと述べた。これをテキスト解釈にかけると「国の税金を使っている以上、国家公務員の一員として、政権を批判してはならない」という意味になる》(同)

 が、果たしてそのような<意味>になるのだろうか。要は、「頂門の一針」のごとく急所を衝(つ)き、戒(いまし)めるというのらいざしらず、反権力よろしくただ政府批判を繰り返すのだけなら、政府機関を離れてやってくれ、ということなのではないか。だったら学術会議を民営化すればいいだけの話である。民営化すれば人事も自由だし、政府批判も自由である。

《2つの大きな誤謬(ごびゅう)が隠されている。学問は国家に従属する《しもべ》でなければならないという誤った学問観であり、国家からお金をもらっている以上、政権批判をしてはならないという誤った公民観である》(同)

 今更ながら「人間というものは、自分が見たいようにしか見えないものだ」とつくづく思ってしまう。学問は独り学術会議内だけで行われているものではない。任命拒否という形で<国家>が学術会議に介入したということであっても、学術会議外の学問には何の関係もない。また、学術会議外の大学人も<国家>から資金援助されているが、だからといって政権批判してもお咎めはない。問題は、学術会議が政府機関であり、政府を扶翼(ふよく)すべき立場にあるにもかかわらず、自らのイデオロギーによって政府批判を繰り返すことにある。

《学問は、国家や時の権力を超越した真理の探求であり、人類に資するものである。与党に資するものだけを学問研究とみなすことは大きな誤りである。学問研究によって得られる利益は人類全体に寄与するものでなければならず、時の政権のためのものではない》(同)

 随分大きく出たものだ。藤谷会長自ら研究している学問も<人類全体に寄与するもの>だと思っているのだろうか。そこまで言うのは烏滸(おこ)がましいと思うのが常識というものだろうが、藤谷会長は余程自信がお有りなのだろう。

 <国家や時の権力を超越した真理の探求>と言いながら、時の政権に歯向かい、特定機密保護法や安保関連法に反対声明を出すのは辻褄が合わない。反対声明は学問とは関係ないと言うのかもしれない。だったら<学問の自由>云々という話でもなくなってしまう。【続】