保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

頓珍漢な読売元日社説(3) ~寒心に堪えない社説~

《技術も人間の営みである。人間力こそ国力の礎(いしずえ)であることを思い起こしたい。

 デジタル化の問題でも、同様のことがいえる。国と地方の行政手続きなどは、システムをデジタル化して、国民の利便性を高める必要がある。しかし、教科書のデジタル化となると話は別だ。

 デジタル機器の動画や音声を副教材として活用するのは有効だろうが、紙の教科書をやめてデジタル・タブレットに切り替えるなど、本末転倒も甚だしい。

 書物を読み、文章を書くことで人間は知識や思考力を身につけ、人間として成長する。数学者の岡潔が言っている。「人の中心は情緒である」(春宵十話)》(1月1日付読売新聞社説)

 「デジタル化は必要だ。が、教科書は別だ。「人の中心は情緒」だと岡潔が言っているではないか」では筋が通らない。私なら、「ただ効率化を求め、<デジタル化>の功罪を見極めることなく、何でもかんでも性急に<デジタル化>しようとすることには賛成できない」とでも言うだろうか。

 ここで岡氏の言う「人の中心は情緒である」について、これだけでは何のことか分り様もないので、少しだけ掘り下げておこう。

《頭で学問をするものだという一般の観念に対して、私は本当は情緒が中心になっているといいたい》(岡潔『春宵十話』(光文社文庫)、p. 15)

と岡氏は言う。学問とは情緒が中心となるべきものであって頭でするものではないということである。このことを学ぶ側ではなく教える側から別の角度で次のようにも言っている。

《学問を教えることが教育だと思っている人たちは、恐ろしくてそこを見きわめることなんかとうていできないから、教えなければ何か崇(たた)りがあるように思っているのであろう。これは迷信である。同時に学問にいろいろ人為的な名称をつけて憶え込ませておきさえすれば、その効き目によって、知、情、意は人らしくよく働き、創造はおのずからできると思っているようである。これも迷信である。この二つの迷信は得てして相伴うものである。これが西洋の宗教学者が最低の宗教といっている自然教の形式である。すなわち崇りの恐れと呪文の効き目とである。

 死蔵された知識は、他がそのとおりのことをいえばなんだかそんな気がする。だからクイズには出られる。日本人はことによると、これを教養と思っているのかもしれない。それだったら鸚鵡(おうむ)よりまだ下である。これはたぶん、明治の初めからそうだったのであろう》(岡潔『日本という国の水槽の水の入れ替え方』(成甲書房)、pp. 95-96)

 詳しくは長くなるので別稿に譲らざるを得ないが、いずれにせよ、岡氏の話は教科書の<デジタル化>の話とは何の関係もない。

《政治の安定も、国力の大事な要素である。経済力がいくら大きくても、指導者が国民から信頼されなければ、足元が脆弱であることを見透かされて、他国もその指導者を信頼してくれないだろう。

 為政者が国会答弁でウソをつく、疑問をもたれる政治決定について頑(かたく)なに説明を拒み続ける、などの姿は、寒心に堪えない》(同、読売社説)

 安倍政権を持ち上げてきた新聞の掌返しの方が私には余程<寒心に堪えない>と思うのだが…【了】