保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

選択的夫婦別姓について(2) ~別姓夫婦は家族なのか~

《困っている人がいれば、寄り添い、解決策を探る。当たり前のことだろう。なのに長年にわたり放置されてきた問題がある。

夫婦が希望すれば結婚前の姓を名乗れる「選択的夫婦別姓」制度の導入だ》(12月2日付日本経済新聞社説)

 おかしな道徳論をぶつものだ。<困っている>中身を問わず、なんでもかんでも<寄り添い、解決策を探る>ことなど有り得ない。

《働き続ける女性が増えるなか、結婚前の姓を引き続き使えないために仕事に支障が生じる、との声は多い。ひとりっ子が増え、実家の姓を残したい、という希望も強い》(同)

 つまり、良き家族を創る意志も無ければ覚悟も無いということである。実家の姓を残すからには、家族よりも実家を優先しようということである。

《女性活躍や少子化対策の観点からも、見逃せない問題だ》(同)

 <女性活躍>というのも、女性の働く権利を守ろうなどという博愛的なものというよりも、男も女も平等に働く「共産主義社会」を目指すものであろう。が、このような平等の追求が自由を締め出し、「全体主義」へと導かれることは20世紀の歴史が証明するところだったのではなかったか。

 <少子化対策>というのも眉唾話である。夫婦別姓婚が認められれば出生率が上がるというのはどういう根拠に基づいているのだろうか。また、百歩譲って子供の数が増えたとしても、家族崩壊した子供が増えれば、社会を担うどころかむしろ社会的負担が増すだけである。

《反対意見の代表例は「家族の一体感を損ねる」だ。しかし同姓であることだけが、家族の絆の源ではないだろう。さまざまな家族のあり方、多様な価値観を尊重する社会であれば、夫婦にも子どもにも悪影響は生じないはずだ》(同)

 が、同姓でない集団は<家族>足り得ない。故に<家族の絆>と呼べるようなものも存在し得ない。

朝鮮半島からシナ大陸にかけては「夫婦別姓」であるが、この姓は日本の姓(氏)とは同じではなく、儒教のタブー的な倫理規範とその伝統に基づく“血族の標識”であり…日本には13万弱の姓(氏) があるが、朝鮮半島には「血族の標識」であるため326(1930年の国勢調査)しかない》(中川八洋『国が亡びる』(徳間書店)、p. 89)

 また、<夫婦にも子どもにも悪影響は生じない>というのも根拠がない。が、<さまざまな家族のあり方、多様な価値観を尊重する社会であれば>と保険を掛けた言い方をしているので、最後は社会の所為(せい)にして終わりという筋書きなのだろう。

《選択的夫婦別姓は、決してすべての夫婦に強いるものではない。あくまで希望する人に、新たな選択肢として示すものだ》(同)

 このような甘言に騙(だま)されてはならない。選択的夫婦別姓が認められれば、次は夫婦同姓か別姓かを選択するようになることは容易に想像される。そして少しずつ家族解体が進行していく。

《家族の廃止! もっとも急進的な人々さえ、共産主義者のこの恥ずべき意図に対しては、激怒する。現在の家族、ブルジョア的家族は、何に基礎をおいているか? 資本に、私的営利にである。完全に発達した家族は、ブルジョア階級にだけしか存在しない。しかも、そういう家族を補うものとして、家族喪失と公娼制度とがプロレタリアに強いられる。

 ブルジョアの家族は、この補足がなくなるとともに当然なくなる。そして両者は資本の消滅とともに消滅する》(マルクス・エンゲルス共産党宣言』(岩波文庫大内兵衛向坂逸郎訳、p. 63)

 日経社説のような共産主義的主張には気を付けなければならない。【続】