保守論客の独り言

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判子廃止騒動について

河野太郎行政改革担当相が24日、行政手続きで印鑑使用を原則廃止するよう全府省に文書で要請した。やむを得ず使用する場合は、9月末までに理由の早急な回答も求めた。河野氏は24日夜のテレビ朝日番組で、デジタル化推進の一環と位置付けた》(産経ニュース2020.9.24 23:12)

 判子(ハンコ)は今や時代遅れの象徴と化している。だから大した議論もなく簡単に廃止という話になるのだろう。が、「デジタル化の時代に判子など要らないでしょ」などという話に私は同意はしない。ハンコ業界を守りたいからでもないし、判子に哀愁を感じるからでもない。文化を足蹴にするかのような短絡短慮を嫌うからである。

 印鑑は承認の証(あかし)であり、押印は承認の儀式である。「押印」は儀式であるがゆえに非日常的厳粛さが伴う。だからこそ承認の重みも生まれる。判子はこの儀式を司る大切なる道具である。

 そんな大層な話ではないと思う人がほとんどであろう。それが判子不要論の素(もと)である。詰まり、判子が無用の長物なのではなく、押印という承認行為がもはや「儀式」足り得ず、厳粛さを伴わぬお気楽な「確認」の水準に堕してしまったために、世間の人たちは判子の必要性を感じなくなってしまっているのだと思われる。

 だとすれば、押印の儀式を必要としない書類自体がそもそも不要なのではないか。であるなら、このような不要な書類を作成する人間もまた不要となろう。書類がデジタル化されるのなら、保存する場所も要らなくなるし、役所も随分簡素簡略化出来るに違いない。

 が、一見無用と思われるものにも「用」があるやもしれぬ。長く続けられた慣習にはそれなりの意味があるものだ。

You never miss the water till the well runs dry.

「井戸が干上がるまで水の有り難さを感じない」とは「物の有難さはなくなってはじめて分かる」ということである。

 判子という道具が要らないのか、押印するまでもない書類なのか、押印する必要のない人物なのか、議論をごちゃ混ぜにすべきではない。簡素化できるものは簡素化すればよい。が、どれほど簡素化されようとも、判子という道具は必需品であるし、押印すべき書類はなくならない。押印する機会はもっと少なくなってよいだろうが、だからといって決して零にはならない。

河野太郎行政改革担当相は29日午前の記者会見で、行政手続きでの印鑑使用を全府省で原則廃止する方針に関連して「はんこは文化的な側面もある。はんこ文化を振興していくお手伝いは私も積極的にやっていきたい」と述べた》(産経ニュース2020.9.29 12:29)

 河野行革相の「文化」という言葉には、何か神社仏閣にある文化財のような響きがある。が、判子は文化遺産でも何でもない。

 押印の儀式をなくしてどうして責任を負えようか。どうすれば印鑑なき書類を信用できようか。

小泉進次郎環境相は25日の記者会見で、政府のデジタル化推進に関連し「前例主義にとらわれず、省内のはんこ業務を廃止する方向で速やかに見直す」と表明した》(産経ニュース2020.9.25 13:21)

 責任無き文書が出回り、信用無き書類が蔓延するなどと言えば大袈裟に過ぎると言われるのだろう。が、日本人は押印することで責任を負い、信用を保証してきたのである。それが日本の文化なのである。

 文化というものを軽々に考える風潮を私は憂慮する。