保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

永井荷風『断腸亭日乗』(2) ~檻の中の自由~

開戦半年前、6月20日の日記である。

《余はかくの如き傲慢無礼なる民族が武力を以て隣国に寇(こう)することを痛歎(つうたん)して措(お)かざるなり。米国よ。速(すみやか)に起つてこの狂暴なる民族に改俊の機会を与へしめよ》(永井荷風『摘録 断腸亭日乗(下)』(岩波文庫)、p. 145)

 日本を<狂暴なる民族>と呼び、米国に懲らしめてくれるように願うなどとても尋常とは思えない。歪んだ渡米経験が荷風にこのように言わせしめているのだろうか。

《総じてアメリカほど、精神の独立と真の討論の自由がない国を私は知らない。

 ヨーロッパの立憲国家ではどんな宗教理論、いかなる政治理論であれ、自由に説くことができ、立憲国家以外にもそうした理論はすべて浸透している。なぜならヨーロッパでは、どんな単一の権力の下にある国であっても、真実を語ろうとする者は、そのような自立的精神が招く帰結から自分を守ってもらえる支持者をどこかに見出すからである。不幸にも絶対的な政府の下に暮らしているならば、しばしば民衆が彼の力となる。自由な国に住んでいれば、必要な場合、王権の庇護の下に隠れられる。民主主義の国であれば社会の貴族的部分が、貴族制の国であれば民主的な部分が彼を支持する。ところが、合衆国のような構造の民主主義の中には、ただ1つの権力、力と成功のただ1つの要素しか見当らず、それ以外には何も存在しない。

 アメリカでは多数者が思想に恐るべき枠をはめている。その限界の内側では作家は自由である。だが一歩その外へ出れば、禍(わざわい)が降りかかる。火刑に処されるのを恐れねばならぬわけではないが、ありとあらゆる嫌悪の対象となり、毎日迫害の憂き目を見る。政治の道は断たれる。その道へ彼を導きうる唯一の力に逆らったからである。何を求めても彼は拒絶され、栄誉も与えられない。意見を公にする前には支持者があると信じていたのに、天下に見解を明らかにしてみると、支持する者は誰も目に映らない。彼を非難する者は声高に叫ぶが、彼と同じ考えの者は口に出す勇気がなく、沈黙し、遠ざかっていくからである。彼は譲歩し、やがて日々の圧力に屈し、まるで真実を語ったことを悔いてでもいるかのように、沈黙に返る》(トクヴィルアメリカのデモクラシー』(岩波文庫)第1巻(下)松本礼二訳、pp. 153-154)

 戦後日本の自由は、GHQが敷いた思想の枠の中だけのものである。その枠とはGHQが押し付けた日本国憲法である。だから憲法改正を言い出すなど「以ての外」(もってのほか)なのである。日本は米国流のデモクラシイを受け入れ<精神の独立と真の討論の自由がない国>となってしまったのである。【続】