保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

永井荷風『断腸亭日乗』(1) ~米国流デモクラシイの影~

作家・永井荷風は日米決戦間近、昭和16年9月6日の日記に次のように書いた。

《米国と砲火を交へたとへ桑港(サンフランシスコ)や巴奈馬(パナマ)あたりを占領して見たりとて長き歳月の間には何の得るところもあらざるべし。もし得るところ有りとせんか。そは日本人の再び米国の文物に接近しその感化に浴する事のみならむ。即デモクラシイの真の意義を理解する機会に遭遇することなるべし。(薩長人の英米主義は真のデモクラシイを了解せしものにあらず。)》(永井荷風『摘録 断腸亭日乗(下)』(岩波文庫)、p. 152)

 これを

《若き日の米国滞在が培った洞察力が敗戦国日本を予言した》(8月18日付北海道新聞「卓上四季」)

と卓上四季子は評している。が、私は、このように書く荷風はむしろあまり事情に明るくなかったのではないかと思う。

 そもそも当時の日本にはサンフランシスコやパナマを占領出来るような力などなかった。荷風の日記からは、勝てる見込みのない戦いに日本が打って出ざるを得ない悲壮さが微塵も感じられない。何となく他人事(ひとごと)なのである。

 さらに荷風は、明治維新以降の近代日本を築いてきた薩摩、長州の英傑を<真のデモクラシイを了解せしものにあらず>と扱(こ)き下ろす。が、欧米帝国主義の植民地とならぬよう近代化を急いだことの拙速をこのように咎(とが)め立てして何が面白いのだろうか。

 そもそも<デモクラシイの真の意義>とは何か。日本と英国は共に「立憲君主国」といえども日本の天皇と英国の国王は同じ存在ではないから中身は自ずと異なってこよう。まして君主を持たぬ米国と政体が同じになろうはずもない。したがって、日本が未だ<デモクラシイの真の意義>を解さぬ「デモクラシイ後進国」のように考え卑下する必要はまったくないのである。

 それどころか、米国は太平洋戦争で原爆投下という戦争犯罪に手を染め、未だ多くの米国人がこれを正当化し続けている。それがデモクラシイ先進国米国の正体ではないか。

《私は、いつのころからか、アメリカに戦争で負けたとき、日本の知識人のせめて1割でも、“トックヴィルを想い起こせ”といってくれていたなら、戦後日本はアメリカン・デモクラシーに追随することに文明の進歩をみるというような愚行に走らずにすんだのに、と残念に思うことがしばしばである。反米主義を煽りたくてこんなことをいうのではない。自由のためには秩序がなくてはならず、そして自由と両立しうる唯一の秩序は、国民の宗教感覚や道徳風習の枠組 ― つまりナショナル・アイデンティティ ― なのだということ、そして民主のためには(世論(せろん)ならざる)輿論(よろん)がなければならず、そして輿論は国民がおのれらのナショナル・アイデンティティは何であるかについて会話し議論し討論するなかで打ち固められるものだということを、トックヴィルから学びえたに相違ないのである》(西部邁『思想の英雄たち』(文藝春秋)、p. 65)【続】