保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

安倍政治を振り返る(4) ~歪んだ教育改革~

安倍晋三首相は、第1次、2次政権ともに「教育再生」を掲げる諮問機関をつくるなどして、官邸発の教育改革を推し進めてきた。

 そこには2つの流れが存在した。1つの流れは復古的、保守的な方向に向かった。2006年には教育基本法を改正。教育の目標に「愛国心」を盛り込んだ》(9月8日付東京新聞社説)

 教育の1つの目標が<愛国心>の涵養(かんよう)にあることは論を俟たない。が、<愛国心>を危険視する人たちがいるのも確かである。<愛国心>が「自民族中心主義」(ethnocentrism)や「排外主義」(antiforeignism)に繋がることを恐れるということのようであるが、国を愛するという当たり前のことをこのような負の連想でしか見られないというのは悲しいことである。

 もし<愛国心>が危険であるかのような考え方が罷(まか)り通ってしまえば、世の中に日本を愛せない日本人が蔓延することになってしまいかねない。実際、そういう不幸な人達が多く育ってきたのが戦後日本であり、それを先導したのが戦後教育であった。

 が、改正教育基本法の<愛国心>の条文は至って政治的なものであった。

第2条 5 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

 「愛国心を涵養する」と直截(ちょくさい)的には言わない。「国と郷土を愛する…態度を養う」と言う。が、<態度>とは何か。

 <態度>とは見た目である。内心は関係がない。いかにも国や郷土を愛しているという<態度>を示すことが求められるのだとすれば、それは「偽善」の推奨であり、むしろ反教育的とさえ言える。

 このようなおかしな条文が出来てしまったのは、連立与党の公明党の影響である。創価学会を母体とする公明党が、「愛国心の涵養」では「心」の問題に介入することになると反対したために<態度を養う>という表現に落ち着いたのである。

 <愛国心>を受け入れられない「新興宗教」の不寛容さを露呈した一件であったが、このような不自然かつ不健全な条文をもって「改正」を為し得たと喜んでいる保守派の人達には多いに反省を求めたいところであるが、これを問題視している人達は皆無である。

《いじめ対策などを理由に、それまで教科外の活動だった道徳も教科となった。戦前の軍国主義教育の反省から、戦後教育では国の基準に沿って作られた教科書に基づき、心を評価することになる教科化を避けてきた。第1次政権では見送られたが、2次政権下で実現に至った》(同)

 教科化された「道徳」にも疑問符が付く。

文部科学省は27日、「特別な教科」として格上げする小中学校の道徳について新たな学習指導要領を告示した…下村博文文科相は同日の閣議後の記者会見で「子供たちには道徳の授業での議論を通じて、様々な考え方があることを学んでほしい」と話した》(「道徳「教科化」を告示 文科省」:日本経済新聞2015年3月27日12:08)

 「あるべき姿」を学ぶことが道徳教育であるはずなのに、これを相対化し多様化してしまっては道徳教育にならない。行き過ぎた多様化が自分勝手に陥り、社会秩序を不安定にすることを反省して道徳教育を強化しようとしているはずなのに、様々な考え方があることを学んで自分勝手を正当化することに手を貸そうとするのは愚かである。【了】