保守論客の独り言

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靖国神社閣僚参拝について

《敗戦から75年の日に、安倍首相に近い3人を含む4閣僚が靖国神社に参拝した。自らは参らず、自民党総裁として玉串料を奉納するにとどめたとはいえ、政権全体の歴史観が問われる事態である》(8月16日付朝日新聞社説)

 朝日の歴史観が絶対的なものであるという考え方は止めるべきだ。そもそも歴史観などというものは歴史を観る方向や距離感によって随分と異なるものとなる。そこに戦後日本のように政治的事情が介在すれば尚更(なおさら)である。

 自分の歴史観だけが「唯一正しい」と排他的になるのではなく、相手の歴史観も認めた上で議論を積み重ねることが「国民の歴史」を編む上で欠かすことが出来ないのではないだろうか。

《戦争の犠牲者を悼む気持ちは誰も否定しない。だが、軍国主義を支えた国家神道の中心的施設を、現在の政治指導者が参拝することは、遺族や一般の人々が手を合わせるのとは全く意味が異なる》(同)

 この<軍国主義>という言葉が問題である。戦後日本における主流的な戦前の解釈は、「軍部が暴走し軍国主義化した日本が大陸を侵略した」というものであった。が、ポピュリズムよろしく朝日を始めとする新聞が世論を煽ったことがこの背景にあったことが一切捨象されている、つまり、捨て去られてしまっている。

 当時朝日新聞には尾崎秀実(おざき・ほつみ)なるコミンテルンのスパイがおり、日本が戦争を行うことで疲弊するように世論を煽った。このことが総括されず、未だに朝日新聞が自由気儘に反日工作を行い続けられているのは全くもって不可解というより他はない。

 朝日新聞が戦前の<軍国主義>を支えた、否、主導したのである。このことを棚上げにして現閣僚の靖国参拝を批判するなどというのは言語道断である。

靖国神社には、東京裁判で戦争責任を問われたA級戦犯も合祀(ごうし)されている。侵略の被害を受けた国々を中心に、日本が過去の過ちを忘れ、戦前の歴史を正当化しようとしていると受け止められても当然だ》(同)

 文明社会にあるまじき「事後法」で日本の政治指導者を裁いた東京裁判は、裁判と呼ぶに値しない「私刑」(lynch)である。悲しいかな敗戦国が「復讐劇」で裁かれるのは仕方がなかったとしても、今尚これが正当なものであるかのように言及するのは絶対に間違っている。未だに<A級戦犯>などという言葉を用いるのは、要は戦勝国側の走狗(そうく)でしかなということである。

 米ソ冷戦終結後、米国で公開された「ヴェノナ文書」によって、日本が戦争に追い込まれていった事情もより明らかとなりつつある。つまり、太平洋戦争は「自存自衛戦争」であったという解釈も十分以上に成り立つのである。

 敗戦後75年が過ぎ、客観的に戦前を再解釈することも可能である。いつまでも、「東京リンチ裁判」に呪縛され続けるのは愚かである。