保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

脱ハンコについて(1) ~「効率」という名の陥穽(かんせい)~

《ハンコや紙に依存した慣行の見直しに向けた機運が広がり始めている。いかにビジネスの効率化につなげるか、官民で検討してもらいたい》(6月1日付読売新聞社説)

 確かにハンコは、特にビジネスの世界において、非効率の象徴のような存在なのだろうと思われる。だから「効率」ということだけで言えば、在宅勤務が広がりつつあるこの際に、ハンコを無くしてしまいたいと考えるのも無理はない。

 が、私は思うのである。ハンコは「非効率」だからこそ必要であると。

《緊急事態宣言が解除された後も在宅勤務を続ける企業は多い。密閉、密集、密接を避ける「新しい生活様式」に沿う。経営者からは「働き方改革」や生産性向上に役立っているとの声が出ている。

 それをハンコが妨げているとすれば、改善の余地は大きい》(同)

 ここに出て来る<経営者>とはどのような人達なのであろう。高々2,3か月の特殊な状況下で、在宅勤務が<「働き方改革」や生産性向上に役立っている>という判断を下すのは余りにも浅薄に過ぎやしないか。このような経営者は極少数だと信じたいが、問題はむしろこういった人達の話を優先し<脱ハンコ>の話を持ち出す読売主張子の方である。

 コロナ禍の影響をもろに受け、倒産を余儀なくされたり、規模を縮小せざるを得ない企業が少なくない。GDPの落ち込みは、おそらくリーマンショックを超えるだろうと予想される。<働き方改革>だの<生産性向上>だの言うのはもっと順調余裕があるときの話ではないか。

《ハンコは、本人であることを確認し、文書に信頼性を与える手段として古くから使われてきた。海外では欧米を中心に手書きのサインが一般的で、ハンコの使用は東アジアの国・地域に限られる》(同)

 欧米はサインなのだから日本もハンコをやめサインにすべきだ、ということなのか。日本はいつになったらこのような「欧米コンプレックス」を克服できるのだろうか。

 欧米と異なるものは後進性の表れとして半ば自動的に自らを否定し彼らに倣(なら)おうとする。が、<効率>という物差しだけで文化の優劣を図ろうとするのは愚の骨頂でしかないだろう。

 蓋(けだ)し、ハンコの使用は面倒臭いものである。が、面倒臭いからこそ、簡便なサインとは違って、ついうっかりだとか深く考えることなくといった軽挙妄動を防げるのである。ハンコを押すことは、やはり一種独特な、気持ちが引き締まる、厳粛な行為なのである。

 もし、ハンコを無くしサインで済ませるのであれば、そのことによってサインの重みが格段に高まることを理解することが不可欠である。ハンコが無くなることで面倒な手続きが簡素化されるなどと安易に考えるべきではない。【続】