判断能力の発展段階からみて、それ相応以下にふるまう社会、子供を大人にひきあげようとはぜず、逆に子供の行動にあわせてふるまう社会、このような社会の精神態度をピュアリリズムと名付けよう(ホイジンガ『朝(あした)の影のなかに』「XVI ピュアリリズム」(中公文庫)堀越孝一訳、p. 152)
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麻生氏の大臣としての業績よりも、彼の失言にばかり目が向くのはホイジンガ言うところの「ピュアリリズム」(文化的小児病)なのではないか。
《教養があるなしにかかわらず、じつに多くの人のばあい、生に対する構えは、いぜんとして、あそびと人生とに対する少年の心そのままである。
さきにわたしはたまたま、永遠の青年期と呼んでしかるべき、あのひろくみとめられる精神状況について語った。それを特徴づけるのは、
適切なことと適切ではないことをみわける感情の欠落、他人および他人の意見を尊重する配慮の欠如、個人の尊厳の無視、自分じしんのことに対する過大の関心である。判断力と批判意欲の衰弱がその基礎にある。
このなかばみずからえらびとった昏迷の状態に、大衆はひじょうな居心地のよさを感じている》(同、p. 159)
英テレグラフ紙は麻生発言を次のように報じている。
I often got phone calls [from people overseas] asking ‘do you have any drug that only you guys have?” said Aso, who has something of a reputation for controversial comments. “My answer is the level of social manners is different – and then they fall silent.” ― The Telegraph, 5 June 2020
《言われた相手はどう受け止めたのか。親しい間柄だとしても言っていいことと悪いことがある。口論になっても不思議ではない。自身の言動の非常識さに気付かないのなら閣僚としての資質以前の問題だ》(6月6日付琉球新報社説)
と琉球社説子は言うが、the level of social manners is different(社会慣習の水準が違っている)と言われて自分たちが貶(おとし)められているなどと反発する外国人がどれくらいいるのだろうか。
《現代の生にあそびとまじめの混淆を認めるとき、わたしたちは、根底からさぐりつくすことなど、ここではとうてい不可能なほど深遠な問題にぶつかるのである。
この現象は、ひとつには、仕事とか、義務とか、運命とか、生とかを、あまりまじめなこととは考えないという傾向としてあらわれる。
他面、また、曇りのない判断に立てば、どうでもよいこと、子供っぽいことと呼んで当然のことに、高度のまじめさを認めるという傾向、また、真に重要なことがらをあつかうに、あそびの衝動とふるまいとをもってするという傾向としてあらわれる》(ホイジンガ、同、p. 160)
《日本が他国より劣っていたり、失敗して叱られたりしていないと落ち着かない奇病が、一部で重篤化している》(6月6日付産經新聞産経抄)【了】