保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

森友問題:遺族提訴について(1) ~真相を追及できないマスコミと野党~

森友学園への国有地売却をめぐる財務省の公文書改ざんに加担させられ、自ら命を絶った近畿財務局の赤木俊夫さん(当時54)の妻が、国と当時の理財局長だった佐川宣寿(のぶひさ)氏に損害賠償を求める訴えを起こした。

 弁護団が公表した赤木さんの手記には、本省主導で公文書が改ざんされていく過程が、関係者の実名入りで詳細に記されていた。すべてが佐川氏の「指示」であるのに、近畿財務局に責めを負わせようとする財務官僚の無責任体質への怒りもつづられていた》(3月20日朝日新聞社説)

 これをもって朝日社説子は、

《いまだ解明されていない森友問題の真相に迫る新たな動きにつなげねばならない》(同)

と言う。が、<真相>って何だ。それは自分たちが勝手に妄想した「安倍首相の関与」ということなのか。

 それならどうしてその<真相>なるものをマスコミは自らの手で解明しようとしないのか。本当のことを言えとふんぞり返っているだけでは報道の職務放棄である。

 本当はもっと<真相>に関わることを知っているのではないか。が、<真相>に踏み込もうとすればするほど、安倍首相批判とは違う方向に話が行ってしまう。だから、<本当のことを言え>としか言えなくなってしまっているのではないか。

 そもそもこの問題は、「おかしな」教育を行っている幼稚園があるということでテレビのワイドショーが話題にしたことに始まる。

 6歳の園児に運動会の選手宣誓で、

「日本を悪者として扱っている中国、韓国が心改め、歴史でうそを教えないようお願いいたします」

「安倍首相がんばれ」

「安保法制国会通過、よかったです」

などと言わせている映像が繰り返しテレビに流された。教育勅語五箇条の御誓文を暗唱させ、挙句の果てに軍歌まで歌わせる。

 確かに「やり過ぎ」の感はあろう。が、我々は一私の幼稚園の指導方針に介入することがどこまで許されるのだろうか。無論、これが社会に悪影響を与えるとして制限することも可能である。が、それは自由を制限することである。

 社会の秩序を掻き乱すようなものは法的に罰せられなければならない。が、それはJ・S・ミル言うところの「他者危害の原則」が適用される場合に限られる。

The acts of an individual may be hurtful to others, or wanting in due consideration for their welfare, without going the length of violating any of their constituted rights. The offender may then be justly punished by opinion though not by law. As soon as any part of a person's conduct affects prejudicially the interests of others, society has jurisdiction over it, and the question whether the general welfare will or will not be promoted by interfering with it, becomes open to discussion.

But there is no room for entertaining any such question when a person's conduct affects the interests of no persons besides himself, or needs not affect them unless they like (all the persons concerned being of full age, and the ordinary amount of understanding). In all such cases there should be perfect freedom, legal and social, to do the action and stand the consequences. ーJ.S. Mill, On Liberty:CHAPTER IV

(個人の行動が、制定された他人の権利のいずれも侵すところまでは行かなくても、他人に危害を加えるか、他人の福利に十分な配慮を欠いていることもあるだろう。そういった違反者は、そのとき、法ではなくとも意見によって罰せられるのもやむを得まい。個人の行動が何であれ他人の利益に損害を与える部分があればすぐ、社会がそれを管轄することになるが、社会がそれに干渉することで全体の福利が促進されるかどうかの問題は議論の余地がある。

しかし、個人の行動が本人以外の人の利益に影響しない、あるいは、個人の必要が他人が好まなければその人の利益に影響しない場合は、こういった間題を考慮する余地はない(すべての関係者が成年に達し、通常の理解力があればであるが)。このようなすべての場合、行動し、その結果を引き受ける自由が、法的にも社会的にも守られるべきである)【続】