保守論客の独り言

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「人権」と憲法97条(3) ~棚ぼたの基本的人権~

一方、芦部信喜はこの97条を擁護する。

《たしかに、制憲者が明確な憲法論に基づいて、97条を「最高法規」の章に置いたわけではなく、むしろ偶然の経緯で定められた沿革を考えると、11条が存在する以上、97条は無用だという議論も理由がないではない。

しかし、実質的最高性の原則があって初めて、形式的最高性を確認した981項が導き出されるという、密接な憲法思想史的関連を考えると、それを明示する97条が「最高法規」の章の冒頭に存在することは、11条と異なる独自の重要な意味を有すると言わねばならない。そこには英米法の「法の支配」の原理の瑞的な表現を見出すことができる》(芦部信喜憲法I 憲法総論』(有斐閣)、pp. 57-58

 が、私にはこれが御用学者の「屁理屈」にしか聞こえない。冒頭の朝日社説子が言う<日本国憲法の97条にならえば>とは、「GHQホイットニー民政局長に倣えば」ということである。

97条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

《これらの基本的人権は…「人間性」にもとづく「自然法」的な権利であるが、そのことは、人間がむかしから現実にそれらの権利を享有していたことを意味するのではない。反対に、人間は、はじめは、それらの権利を、現実には、もっていなかった。

人間は、それらの権利を現実に享有するために、ことに西ヨーロッパおよびアメリカにおいて、非常な努力をこころみ、そのおかげで、それらを、多かれ少なかれ現実に享有しうることになったのである。

「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、……過去幾多の試錬に堪」えたものだ(97条)とは、このことを意味する。すなわち、基本的人権は、われわれの祖先の貴重な努力によって戦いとられたものである》(宮沢俊義法律学全集4 憲法II』(有斐閣)、p. 212

 日本人は97条に言う<人類>に含まれるのか。

《「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」とは、この憲法の保障する基本的人權は、「侵すことのできない永久の權利として、現在及び将來の國民に興へられる」のであるが(11條)、それは、決して棚からのぼた餅のように、無爲にして獲得されたものではなく、それを得るための人類の長い間の努力がつもりつもつた結果として、戰いとられたものであることを意味する。(中略)

 ここにいう「人類の多年にわたる自由獲得の努力」とは、いうまでもなく、18世紀のおわりのアメリカおよびフランスの兩革命によって典型的に代表されているところの西洋諸國民の自由主義ないし民主主義的政治體制のための努力と、多かれ少なかれその影響の下に立つ他の諸國民の同じような努力を指す》(宮澤俊義『法律學体系 コメンタール篇1 日本國憲法』(日本評論社)、p. 800

 が、日本人は敗戦により、欧米流の<基本的人権>を押し付けられたのであって、これを獲得するための<多年にわたる自由獲得の努力>を行っていない。つまり<基本的人権>は「棚ぼた」によって得られたと言うべきだろう。

 自由獲得の努力を行っていない日本人に果たして<基本的人権>を有する正当な<権利>があるのか、さらに言えば、自らの努力で獲得したものでないものを上手く使いこなせるのか、私は甚だ疑問に感ぜざるを得ないのである。【了】