保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

川崎ヘイト条例について(2) ~ヘイトか否かの判断は恣意的~

《特定の国や地域の出身者らに対し、拡声機を使って差別的言動を行うことなどを禁じる。市長がやめるよう勧告、命令しても従わない場合、個人や団体名を公表し、刑事告発する。裁判で有罪になれば、50万円以下の罰金を科す。

 国として差別解消の理念を掲げたヘイトスピーチ対策法が、2016年に施行された。街頭でのデモの件数は減ったが、根絶には至っていない》(1214日付読売新聞社説)

 そもそも<ヘイトスピーチ対策法>が出来たからといって街頭デモが<根絶>されるなどと考える方がどうかしている。

 それどころか、街頭デモを<根絶>することが果たして善い事なのかどうかも疑わしい。

 街頭デモのような騒がしいものは無いに越したことはないのであろうが、時として街頭デモのような形で抗議するより他に手立てがない場合もないとは言えない。

 重要なのは、有権者によって選ばれた議員が議会で必要十分な議論を展開しているか否かである。つまり、議会がしっかり機能している限り、街頭デモのようなものは必要とはならない。が、議会が機能していなければ街頭デモが社会を動かす最後の手段ということも有り得るということである。

 勿論、私はヘイトを擁護する意味でこのように言っているのではない。街頭デモという抗議形式について言っているのである。

 さて、ヘイトについて言えば、何をもってヘイトというのかということは簡単に決められないという問題がある。

川崎市の条例では、ヘイトスピーチをやめさせる勧告や命令にあたり、市長が学識経験者で構成する審査会の意見を聞く仕組みを設けた。裁判を経なければ罰則は科されない。手続きに慎重を期したことがうかがえる。

 ただ、審査会のメンバーは市長が委嘱する。市長の政治的立場によって人選に偏りが出たり、判断が左右されたりするようなことがないか気がかりだ。

 表現に問題があるかどうかを公権力が判断する以上、具体的にどのような言動が処罰対象になるのかを、分かりやすく示す必要がある。審査の過程を透明化することが欠かせない。

 正当な表現活動まで萎()(しゅく)させてしまうことのないよう、適正な運用に努めてもらいたい》(同)

 つまり、ヘイトかどうかの判断はかなり「恣意(しい)的」と言わざるを得ない。だからこそこのような<条例>を安易に制定することは憚(はばか)られるのである。

 今回の条例が、在日外国人は免責され、日本人だけが罰せられるものであることから、相当偏った世論が川崎市に存在するであろうことは容易に想像される。

 このような偏見むき出しのやり方が問題をさらに悪化させることにはならないかと心配される。【続】