保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

核抑止論について(2) ~核抑止論と力の均衡論~

《日本政府には、広島、長崎のような悲劇や核兵器使用の脅しから国民を守る責務がある。だから通常兵力と並んで核抑止力も日本の守りに加える政策を長らく採ってきた。この核抑止力は自前で用意せず、日米同盟に基づき米軍の核戦力つまり米国の「核の傘」を充ててきた》(11月28日付産經新聞主張)

 本当の意味で核から国民を守るというのであれば、ただ「核の傘」で日本を守るだけではなく、直接米露中などの保有国に言えないとしても国際世論に核削減を訴え掛けることも必要であろうし、UN安保理常任理事国5カ国(米英仏露中)、つまり第2次世界大戦の戦勝国が核を独占管理する体制の改革を目指すことも必要となるのではないか。

《今の科学技術の水準では、核の脅威には核を含めた戦力で抑止する態勢をとることが欠かせない。皮肉なことだが、核拡散防止条約(NPT)で認められた核抑止力の存在が、核戦争や大国間の戦争を防いできた面は否めない》(11月28日付産經新聞主張)

 「抑止」だけでなく「平衡」という観点も重要である。「核」に限らず、多くの場合、「力の平衡」が崩れることで侵略侵攻を誘発するのである。このことを「平和憲法」の信者は理解しようとしない。

 日本の側から戦争を仕掛けなければ戦争は起こらないなどと考えるのは先の戦争から何も学んでいない証左である。大東亜・太平洋戦争は英米が日本を戦争に巻き込んだものである。その裏ではソ連の敗戦革命論があった。つまり、日本が大陸侵略を企てたから戦争になったのではなく、日米を戦わせることでソ連が漁夫の利を得ようとしたのが大東亜・太平洋戦争だった。

《「抑止」の類語として「抑制」がある。解釈を少々ひろげれば「平衡」や「均衡」も抑止や抑制が作動した結果にほかならない。その跛行(はこう)の最も端的な表れが防衛費論争だった。国内総生産GDP)の「1%以内」という枠組みだけを論じて、北東アジアにおける「兵力均衡論」を回避しつづけた。これまた元をただせば「憲法9条」問題に行きつく。

 通常兵力における「均衡論」を回避してきた最大の理由が「憲法」にあるわけだが、その背後にアメリカの「核の傘」があることもまざれもない事実だ。それにもかかわらず「非核3原則」という看板を掲げてしまった限り「核の抑止力」について語るわけにはいかない。つまり軍事を考える際の最も重要な言葉のはずの「均衡」と「抑止」を、戦後の日本人は二つながら喪失していたのである。これではもう言葉の跛行どころか精神の跛行、軍事に限定していえば失語症状態というほかないだろう。

 この精神の跛行、軍事における失語症を補完しているものは何か。日米安全保障条約にほかならない。厄介なことに戦後憲法を改正しない限り、「9条」と「日米安保条約」をワンセットにして国を守るほかないという構造になっている。これが現実であることは否定しがたいが、その現実にどっぷりつかって理想を忘れたところにもう一つの保守派における言葉の跛行状態が生まれた》(井尻千男「抑止と均衡を語れない日本人」:『発言者』平成12年1月号、p. 64)

(注)跛行:釣り合いのとれていない状態のまま、物事が進行していくこと。【続】