保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

英語民間試験導入延期について(1) ~民間試験は不要~

《萩生田文部科学大臣閣議のあとの記者会見で、大学入学共通テストに導入される英語の民間試験について、来年度からの実施を延期することを明らかにしたうえで、試験の仕組みを抜本的に見直し、5年後の令和6年度の実施に向けて、改めて検討する考えを示しました》(NHK NEWS WEB 2019年11月1日 14時44分)

 幸か不幸か、萩生田文科相の「身の丈」発言が切掛けとなって、導入予定の民間試験は、教育の機会均等が保てないことが浮き彫りになり延期されることとなった。が、これは最悪の事態を免れたに過ぎず、根本的な問題が解決されたわけではないことには注意が必要である。そのことは民間試験導入延期に対する政治家の反応からも窺(うかが)える。

自民党の世耕参議院幹事長は記者会見で、「受験生の立場に立った思いやりにあふれた決断だ。この問題は文部科学省の制度設計の詰めの甘さが原因で、民間のテストを使って、話す力などをチェックするのは正しい方向性だ」と述べました》(同)

 公平公正に「話す力」をどうやって評価するのか。そのことが分かっていないからこんな頓珍漢(とんちんかん)な話になるのである。百歩譲って言えば、各大学が必要とあらば2次試験において、各大学の物差しでスピーキングテストを実施することは可能なのかもしれない。が、少なくとも国公立大学受験資格として一律にスピーキングテストを課し、共通の物差しで評価することなど絶対と言って出来ないことは明らかである。

 だから全国共通テストが記述式ではなくマークシート方式となっているのである。マークシートであれば客観的に評価することが出来るが、記述式はどうしても主観部分が排除できず、全国一律の評価基準を設けることが出来ない。

 否、客観性がないからスピーキングテストを実施すべきでないだけではない。そもそも大学受験資格に英語のスピーキング力がどうして必要なのかという問題がある。勿論、大学の特性としてスピーキング力が必要な場合もあるだろう。が、それは各大学が2次試験で問えばよいことであって、全国一律に課す必要はない。

 「話せたらいいな」程度の必要性で大学入試にスピーキングテストを課すのは間違っている。今も将来も大半の日本人は英語を日常的に使う必要はないだろう。AIの進化によって翻訳機器も充実するに違いない。日本のような非英語圏において、これまでの英語教育を否定し、英語の発信力を高めよう夢見るのはまさに「愚の骨頂」でしかない。【続】