保守論客の独り言

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関東大震災後の流言蜚語について

関東大震災からきょうで96年。朝鮮人犠牲者追悼式を巡り、小池百合子東京都知事は3年連続で、歴代知事の慣行だった追悼文送付を見送るという。蛮行に正面から向き合おうとしない知事の対応は、近年、ネットなどで広がる「虐殺はなかった」との主張を勢いづかせることにつながらないか》(91日付北海道新聞卓上四季)

 思うに、小池都知事関東大震災での朝鮮人犠牲者追悼式に追悼文を送付しないのは、96年も前のことをいつまでも引き摺り続けるべきではないという判断ではないか。

寺田寅彦は虐殺を「文化的市民としての甚だしい恥辱」と考えた。たとえ恥辱でも、それをなかったことにしようとするのは恥の上塗りである》(同)

 が、実際は寺田寅彦は次のように言っている。

《科学的常識というのは、何も、天王星の距離を暗記していたり、ヴィタミンの色々な種類を心得ていたりするだけではないだろうと思う。もう少し手近なところに活きて働くべき、判断の標準になるべきものでなければなるまいと思う。

 勿論、常識の判断はあてにはならない事が多い。科学的常識は猶更(なおさら)である。しかし適当な科学的常識は、事に臨んで吾々に「科学的な省察(せいさつ)の機会と余裕」を与える。そういう省察の行われるところにはいわゆる流言蜚語のごときものは著しくその熱度と伝播能力を弱められなければならない。たとえ省察の結果が誤っていて、そのために流言が実現されるような事があっても、少なくも文化的市民としての甚だしい恥辱を曝(さら)す事なくて済みはしないかと思われるのである》(「流言蜚語」:大正十三年九月『東京日日新聞』)

 寺田寅彦は虐殺があったと言っているわけではない。当然それを「文化的市民としての甚だしい恥辱」だなどと言ってもいない。卓上四季子の都合の良いように誤読引用されてはいい迷惑である。

《流言蜚語(ひご)の伝播の状況には…燃焼の伝播の状況と、形式の上から見て幾分か類似した点がある。

 最初の火花に相当する流言の「源」がなければ、流言蜚語は成立しない事は勿論であるが、もしもそれを次へ次へと受け次ぎ取り次ぐべき媒質が存在しなければ「伝播」は起らない。従っていわゆる流言が流言として成立し得ないで、その場限りに立ち消えになってしまう事も明白である。

 それで、もし、ある機会に、東京市中に、ある流言蜚語の現象が行われたとすれば、その責任の少なくも半分は市民自身が負わなければならない。事によるとその九割以上も負わなければならないかもしれない。何とならば、ある特別な機会には、流言の源となり得べき小さな火花が、故意にも偶然にも到る処に発生するという事は、ほとんど必然な、不可抗的な自然現象であるとも考えられるから。そしてそういう場合にもし市民自身が伝播の媒質とならなければ流言は決して有効に成立し得ないのだから》(同)

 寺田寅彦は、「科学的常識」というものが市民にあれば、流言蜚語の広がりを抑え、市民は恥辱を曝さずに済む、だから市民はもっと「科学的常識」を学ぶべきだということを言っているに過ぎない。

 寺田寅彦を恣意的に誤読引用し朝鮮人虐殺を裏付けようとすることの方が余程恥ずかしいことである。