保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

令和元年終戦の日(1) ~戦争の教訓~

《過去に起きた戦争だが、そこから教訓を学び取り、次世代に引き継いでいかねば、再び同じ過ちを繰り返しかねない》(8月16日付東京新聞社説)

 これはその通りである。が、おそらく東京社説子と私の教訓はまったく異なったものであろう。

《「戦没者を追悼し平和を祈念する日」とされる終戦の日に、戦没者を悼むと同時に、過去の戦争を反省し、戦禍を二度と繰り返さない「不戦の誓い」を世界に発信しなければ、本当に平和を祈念したことにならないのではないか》(同)

 「不戦の誓い」って何だ。「不戦の誓い」を世界に発信するとは、他国が日本を攻めてきても日本は戦いませんという「イワンの馬鹿宣言」なのか。

《万が一にもソ連が攻めてきた時には自衛隊は毅然として、秩序整然と降伏するより他ない。徹底抗戦して玉砕して、その後に猛り狂うたソ連軍が殺到して惨澹たる戦後を迎えるより、秩序ある威厳に満ちた降伏をして、その代り政治的自決権を獲得する方が、ずっと賢明だと私は考える》(森嶋通夫「新『新軍備計画論』」:『文藝春秋』1979(昭和54)年7月号、p. 112)

 これを福田恆存氏は次のように批判している。

《要するに、森嶋氏が言ひたい事は、もし敵が攻めて來たら、自衛隊、及び日本國民は無抵抗主義に徹し、無條件降伏するに限るといふ、その一事に盡きる。そして、それが最上の方法だといふ論據を氏は1つ1つ列擧してゐるが、志水氏が「正論」誌上で指摘してゐる樣に、それらはいづれも詭辨(きべん)であり、相互に矛盾してゐるばかりでなく、観念的な机上の空論に過ぎず、十に一つ、百に一つの可能性を、それしか無い必然の道として押し附けたり、逆に百に一つの可能性も無い事を期待して、自分に都合の良い結論を導き出したり、全く支離滅裂といふほかない》(「防衛論の進め方についての疑問」:『福田恆存全集第7巻』、p. 504)

 森嶋論文は関嘉彦論文「"有事"の対応策は当然」(1978年9月15日付サンケイ新聞「正論」)への反論として書かれたものだが、関・森嶋論争について詳しくは別の機会に譲る。

安倍晋三首相はきのう、追悼式の式辞で「我が国は、戦後一貫して、平和を重んじる国として、ただ、ひたすらに歩んでまいりました。歴史の教訓を深く胸に刻み、世界の平和と繁栄に力を尽くしてまいりました」「戦争の惨禍を、二度と繰り返さない。この誓いは昭和、平成、そして、令和の時代においても決して変わることはありません」と述べた。

 不戦の誓いを、令和の時代も引き継ぐことを述べてはいるが、首相の式辞から抜け落ちているものがある。それはアジア諸国の人々に対する加害と反省だ》(同、東京新聞社説)

 日本が戦ったのはアジアを植民地化し搾取していた英米仏蘭の帝国主義国である。アジアを植民地支配から解放し独立に導いたのは日本であり、加害だの反省だのと政治的に言い続けているのは、シナと朝鮮だけである。【続】