保守論客の独り言

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戦後日本を強化する憲法改正論について(2) ~安倍氏も野党も同工異曲~

安倍氏憲法を「国の理想を語るもの」とし、「国家権力を縛る立憲主義」の観点に立つ野党との主張の隔たりは大きい》(7月7日付京都新聞社説)

 が、これらは同じ考えを別の角度から指摘したに過ぎないのだと思われる。「国の理想を語るもの」としての憲法も「国家権力を縛る立憲主義」に基づく憲法も同工異曲に過ぎない。つまり、「国家権力を縛る立憲主義に基づき国の理想を語るもの」として日本国憲法があるということである。

 安倍首相の主張も野党の主張も大差ない。要は、同じ左翼思想の中で政治的主導権争いを繰り広げているに過ぎないということである。

 武蔵野市が『子どもと おとなの 日本国憲法』なるものを掲げている。

《人びとがお互いに人権を尊重すること、民主主義を実行すること、平和を愛する心をもって世界中の人びとと交流していくこと。

憲法に書かれているこれらのことは、日本の国の進んでいくべき道をさし示しています。また、わたしたちの毎日のくらしの目標でもあります。

憲法は、わたしたちの理想と抱負をおりこんだいちばん大事な法典なのです》(発刊のことば)

 「理想としての憲法」の象徴が9条であろう。

《為政者が真剣に憲法第九条を理想としてえがくのであれば、そこに含まれた平和国家の構想を、みずから進んで提示すべきである。たとえ現実に邪魔されてその平和国家構想の実現が遠い将来のことであるとしても、人類の共通のねがいである恒久平和の一礎石となるような平和国豪の構想は、それじたい、日本国民の全部が結束して推進することに生きがいを感じる理想であるにちがいなく、率先し結束してこの理想の実現にはげんでいる日本国民には、犯しがたい道徳的な力があるはずだ》(都留重人憲法第九条と日本の安全保障」:『憲法と私たち』(岩波新書)、p. 135)

 護憲派はこの憲法9条の「理想」を捨ててしまったのか。そうではないだろう。ただ光の当て所が「立憲主義」に変わっただけだと思われる。

 「国家権力を縛る立憲主義」という言い方も曲者(くせもの)である。「立憲主義」自体は、「主義」と名乗っているところに頑迷固陋さが感じられるが、一旦は良しとしよう。問題は、この立憲主義に<国家権力を縛る>などという修飾語が付いていることである。

 現行憲法は米国が占領下において日本を縛るために押し付けた「占領基本法」である。「国家権力を縛る立憲主義」とは、要は、「日本を縛る米国主義」に他ならない。日本を弱体化するために押し付けられた「占領基本法」をいまだに「平和憲法」などと言い繕って後生大事に守り続けようとする護憲派は、謂(い)わば破廉恥の極みと言うべきではないか。(続)