保守論客の独り言

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川崎殺傷事件:「死にたいなら一人で死ぬべき」という非難について(3) ~「一人で死ぬべき」論の前に考えておくべきこと~

2日、元大阪市長橋下徹氏(49)がテレビ報道番組「日曜報道 THE PRIME」(フジテレビ)に生出演し次にように持論を述べた。

「自殺に悩んでいる人をしっかり社会が支えていきますというのは当然のこと」

「やむにやまれず自分の命を断つときは、他人を犠牲にしてはならない。ちょっと言いすぎかも分からないけど、死に方というところを教育することが、僕は重要だと思う」(Sponichi Annex 2019年6月2日 08:17)

 前提とすべきは、<自殺に悩んでいる人をしっかり社会が支え>るということではなく、自殺に追い込むような社会環境を改善していくことなのではないか。例えば、丸山穂高衆院議員を国会が寄って集(たか)って吊るし上げるような「いじめ」はやめるべきだということである。このようなことが公然と行われているようでは「いじめ」はなくなりっこない。

 「教育」に関しても意見が異なる。死ぬのなら他人を犠牲にするな、ということを教育現場で語ることが果たして可能か。様々な事情を抱えた生徒が集まる公教育で語れないであろうことは言うまでもないが、一般の家庭においてもこれを口にすることが出来るとは思われない。

「他人を犠牲をするなんて絶対あってはならない。死ぬのなら自分一人で死ねってことはしっかり教育すべきだと思います」(同)

 このような発言は、橋下氏がいかに教育というものが分かっていないのかを物語っている。精神的に不安定な年頃の子供たちに<死ぬのなら自分一人で死ね>などと言えるわけがない。

 橋下氏は弱者のことが念頭にない「強者の論理」なのである。が、死を選択する人間は社会的弱者である。橋下氏の強い伝言は弱者の心には響かず有害無益である。

 が、もっと広い意味で、「他人に迷惑を掛けるな」という道徳心が、戦前に懲りて公を嫌う戦後日本において欠如してしまっているようにも思われる。言い換えれば、何でも悪いのは社会の所為(せい)とする風潮を改めなければ、自暴自棄の凶行を抑えることは出来ないように思うのである。

 戦後を彩る「個人の尊重」とは、むしろ個人の甘やかしとなってしまった嫌いがある。社会が悪いとしか見られない、つまり、自分を客観視することが出来ないのが個人を尊重した結果というのでは話にならない。

 いじめよろしく集団で個人を追い込む傾向が日本にあって強いことも事実であろうが、一方で、「中間社会」の衰弱化によって救われない個人が増えてきたこともまた残念ながら事実のように思われる。

 「一人で死ぬべき」論の前にもっと考えておくべきことがあるのではないだろうか。【了】