保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

川崎殺傷事件:「死にたいなら一人で死ぬべき」という非難について(1) ~テレビでの発言は慎重であるべき~

川崎市多摩区でスクールバスを待っていた私立カリタス小の児童ら19人が殺傷された事件…事件当日の5月28日に落語家の立川志らく(55)がコメンテーターを務めるTBSの情報番組「ひるおび!」(月~金曜前10・25)で、犯人に対して「死にたいなら一人で死んでくれよって。本当にそういう人は」などと発言。この発言が批判されると、ツイッターで「何故悪魔の立場になって考えないといけないんだ?」と反論した》(Sponichi Annex 2019年6月2日 10:50)

 他人を巻き込んで自分も死のうと思っている人間に対して「死にたいなら一人で死んでくれよ」と言うのは、取り敢えず「正論」と言っても良いだろう。が、世の中には<他人を巻き込んで自分も死のうと思っている人間>などほとんどいない。他人を巻き込むかどうか以前に、死を選択するか否かにとつおいつし、懊悩呻吟(おうのうしんぎん)している人は数多くいるであろうことは昨年も年2万人の自殺者がいることからも分かる。

 ある角度から見れば「正しく思える」ことでも、別の角度から見れば「宜しくない」ことである場合も少なくない。立川志らく氏の発言も生きることに自信を持てぬ人たちに対する配慮に欠けていると言わざるを得ない。テレビという影響力の大きな媒体における発言は慎重の上にも慎重であらねばならない。人の命にかかわるような微妙な問題においては尚更(なおさら)である。

 「死にたいなら一人で死ぬべき」という非難に聖学院大学人間福祉学部客員准教授でNPOほっとプラス代表理事の藤田孝典は反論する。

秋葉原無差別殺傷事件など過去の事件でも、被告が述べるのは「社会に対する怨恨」「幸せそうな人々への怨恨」である。

要するに、何らか社会に対する恨みを募らせている場合が多く、「社会は辛い自分に何もしてくれない」という一方的な感情を有している場合がある。

類似の事件をこれ以上発生させないためにも、困っていたり、辛いことがあれば、社会は手を差し伸べるし、何かしらできることはあるというメッセージの必要性を痛感している》(「川崎殺傷事件「死にたいなら一人で死ぬべき」という非難は控えてほしい」:Yahoo!ニュース 5/28(火) 13:10)

 私はここにかつて土居健郎氏が指摘した日本人特有の『甘え』のようなものを感ぜざるを得ない。たとえ艱難辛苦(かんなんしんく)に打ちひしがれていたとしても、社会が手を差し伸べてくれないからといって他者を殺(あや)めてもよいことにはならない。自助努力を怠り、何でもかんでも社会の所為(せい)にすれば、全体主義を呼び込むだけである。

 国と個人の間にある、家族、職場、学校、地域コミュニティといった「中間社会」が衰弱していることが、個人を孤独に追いやってしまっている元凶なのではないか。【続】