保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

川崎児童殺傷事件について(3) ~必要なのは社会を攪拌する「対流」~

《08年6月、東京・秋葉原歩行者天国に元派遣社員の男がトラックで突っ込み、ナイフで襲撃して7人が死亡した事件はいまだ記憶に新しい。「誰でも良かった」と身勝手な動機を供述している。

 社会へのいらだちが他者へやいばを向けるきっかけになっているなら、その原因をなくすことが必要だ。政府はきのう、通学路の点検などを指示したが、凶行を生み出した背景について多角的に分析し、効果的な政策につなげていくことも政治の責任である》(5月30日付京都新聞社説)

 個人の問題は無視し、何でもかんでも社会の問題にしてしまうのが左寄り人権派の悪いところである。

 他者へ刃(やいば)を向ける切っ掛けとなるような、社会への苛(いら)立ちが個人内にあるのならそれをなくせばよい。であれば、差し詰め私は、日本国憲法とは名ばかりの占領統治法をいまだ後生大事に戴き続けている「戦後日本」というものを無くしてもらいたいが、そのようなことは誰も受け入れないであろう。

 民主主義とは詰まるところ多数決であるとすれば、どうしてもこれに不満を持つ少数派が生まれることは避けられない。が、不満があるからといって他者に刃を向けてよい理由とはならない。不満と凶行との間には大きな開きがある。

 たとえ少数派になっても民主主義は捲土重来(けんどちょうらい)を期すことが出来る、否、出来なければならない。言い換えれば、民主主義には強者と弱者を攪拌(かくはん)する「対流」がなければならないということである。「対流」がなくなってしまうと、階層は固定化する。階層が固定化すると、少数派の不満が解消されず肥大化し、時として破裂する。

 個人が抱く社会への苛立ちが千差万別であろうことは疑いを容れない。その苛立ちの原因をすべてなくすことなど不可能である。

 多くの人が共通して抱く苛立ちを除去するよう社会が努めることは必要ではあるだろう。が、個人が特殊に抱く苛立ちまで社会が取り除くことなど出来るわけがない。これが出来るなどと言うのは「カルト」か「全体主義」である。

 最も重要なのは「自助」の精神である。Heaven helps those who help themselves(天は自ら助くる者を助く)。自らの惰弱を他者に向けて解消しようとするのは卑劣でしかない。

 が、自分だけではどうにもならないこともある。次に重要なのは「共助」である。自分の周りには、家族があり、職場・学校があり、地域社会がある。こういったものが十全に機能していれば未然に防げることも少なくない。

 が、言うまでもなくこういった「中間社会」は見るも無残な状態に陥っている。個と社会の関係に問題を持ち込もうとする左翼思想が「中間社会」を目の敵にする。

《近年の欧米社会で、家族の崩壊現象に対する共同体の復権の要請、宗教、言語などの点での少数者集団の意識的保護、といった観点から、共同体(community)への関心がつよくなってきている。しかし、もともと共同体主義的な風土のうえに、さきに見たような西欧近代法の受容のしかたをした日本では、個人と国家の二極構造、団体敵視型個人主義のもつ意味を十分に点検することが、今なお必要なのではないだろうか》(樋口陽一『改訂 憲法入門』(勁草書房)、p. 59)

 点検しなければならないのは、こういった左翼思想の方である。【了】