保守論客の独り言

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新元号「令和」について(2) ~外務省の元号廃止論~

《外務省が元号を使った和暦の使用を原則的にやめ、西暦を使う方向で検討していることが1日、わかった。これまで外交交渉で西暦を使用する一方、省内の文書は西暦と和暦が混在していたため、読み替えが煩雑で間違う恐れもあった。外務省幹部は取材に対し、「(省内の文書を含めて)基本は西暦を使うように変えていく」と明言した。

 外務省関係者によると、西暦表記を原則とする手続きや時期について現在、検討を進めている。会計年度や閣議の資料などの表記には例外的に元号を使わざるを得ないとみられるが、外務省関係者は「わかりやすさを重視していく」と話した》(朝日新聞デジタル 4/1() 20:29配信)

 元号の使用は基本的であるがゆえになおさら一省庁が勝手に廃止出来るような話ではない。「不敬」とまで言えば時代錯誤の誹(そし)りは免れぬとしても、少なくとも「不遜」であることだけは慥(たし)かだろう。

河野太郎外相は2日午後の記者会見で、外交文書の日付の西暦表記を徹底させる考えを示した。ただ「特に大きくルール変更をするわけではない」とも述べ、国内で使う行政文書は元号表記を維持する考えを示唆。西暦と元号(和暦)の換算の手間を考慮し、西暦を原則とする方向で検討していたが、元号を重視する与党から反発が出たこともあり、トーンダウンした》(毎日新聞 4/2() 19:56配信)

 これからはAI(artificial intelligence)の時代だと目されているような世の中において、<西暦と元号の換算>など大した<手間>であろうはずもなく、建前上の理由でしかない。要は外務省の人間には元号の必要性が分からないということなのであろうが、自分たちが必要性を感じないからといって慣例を勝手に変更することなど公僕として許されることではない。それどころか、元号使用は単なる慣例ではない。文化伝統に纏(まつ)わるものであり、厳しく言えば、元号使用の停止は日本国に対する「反逆」とすら言えるに違いない。

《新元号は「大化」(645年)以来、248番目となる。中国で発祥した元号は、朝鮮、ベトナムにも存在したが、いずれも廃止されている。今は日本でのみ使用されており、「世界に誇るべき文化」と言っていい》(八木秀次夕刊フジ 4/2() 16:56配信)

 が、私は元号の使用それ自体が凄いとは思わない。それを言うなら「万世一系の皇室の存在」の方であろうと思われる。【続】