保守論客の独り言

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象徴天皇について(3) ~目に見えない「天皇」という存在~

《「象徴」という言葉は明治の思想家、中江兆民(なかえ・ちょうみん)がフランス語の「サンボル(シンボル)」の訳語として美学の翻訳書で使い出した言葉という。戦前は一般に芸術や文学の専門用語というイメージだったようだ

▲だから占領軍の憲法案に天皇は「象徴」とあったのを、日本の法学者が「文学書みたい」と驚いてみせたのは精いっぱいの皮肉だろう。だがこの「象徴」、日本の民間の憲法案策定の過程で出たのを占領軍が採用したという見方もある

▲法学者に言われずとも、「象徴天皇」は内実のない言葉といえる。生身の人が国と国民統合の象徴であることなどできるのか?》(225日付毎日新聞「余録」)

 成程、<生身の人>が国と国民統合の象徴であることなどできるわけがない。が、「天皇」は<生身の人>ではない。我々の目に見える陛下は「天皇のごく一部、「象徴」の一部分でしかない。

 日本人の心の中には「目に見えない天皇」が存在する。「日本国の象徴」であり「日本国民統合の象徴」たる「天皇」の本質はこの目には見えない「聖なる部分」にある。

 「象徴天皇」と呼び称するのは適切さを欠く。<内実>が伴わないとすれば、そのことが大きいに違いない。さらに言えば、「天皇」がすぐれて抽象的な存在であることを理解しないことが、「象徴」の中身を空疎空虚にしているのだと思われる。

《日本の皇室は日本民族の内部から起って日本民族を統一し、日本の国家を形成してその統治者となられた。過去の時代の思想においては、統治者の地位はおのずから民衆と相対するものであった。しかし事実としては、皇室は高いところから民衆を見おろして、また権力を以て、それを圧服しようとせられたことは、長い歴史の上において一度もなかった。いいかえると、実際政治の上では皇室と民衆とは対立するものではなかった。

ところが、現代においては、国家の政治は国民みずからの責任を以てみずからすべきものとせられているので、いわゆる民主主義の政治思想がそれである。この思想と国家の統治者としての皇室の地位とは、皇室が国民と対立する地位にあって外部から国民に臨まれるのではなく、国民の内部にあって国民の意志を体現せられることにより、統治をかくの如き意義において行われることによって、調和せられる。国民の側からいうと、民主主義を徹底させることによってそれができる。

国民が国家のすべてを主宰することになれば、皇室はおのずから国民の内にあって国民と一体であられることになる。具体的にいうと、国民的結合の中心であり国民的精神の生きた象徴であられるところに、皇室の存在の意義があることになる。そうして、国民の内部にあられるが故に、皇室は国民と共に永久であり、国民が父祖子孫相承(あいう)けて無窮に継続すると同じく、その国民と共に万世一系なのである》(津田左右吉「建国の事情と万世一系の思想」:『津田左右吉歴史論集』(岩波文庫)、pp. 319-320【続】