象徴とは、
直接的に知覚できない概念・意味・価値などを、それを連想させる具体的事物や感覚的形象によって間接的に表現すること(大辞林第3版(三省堂))
である。つまり、「天皇」という<直接的に知覚できない概念・意味・価値などを>、「陛下」という<それを連想させる具体的>人物によって<間接的に表現>しているということである。
〈象徴〉を意味する西欧語(英語のシンボルsymbolなど)の語源は,ギリシア語の動詞symballein(〈いっしょにする〉の意)からきた名詞シュンボロンsymbolonで,何かのものを2つに割っておき,それぞれの所有者がそれをつきあわせて,相互に身元を確認しあうもの=割符を意味した。(世界大百科事典 第2版(平凡社))
これを応用すれば、天皇とは、国民がそれぞれに持つ<割符>を突き合せたものだと言える。ただし、ここに言う「国民」とは、今を生きる「生者」だけを意味するのではない。過去に生きた「死者」をも含めた「国民」という意味である。こう考えることで、天皇は伝統的、文化的存在と見做(みな)されるのである。
西部邁氏は<象徴>という言葉を次のように評する。
《たしかに、この憲法草案を書いた占領軍は、実は、軽い意味を持たせようと思って「symbol」という言葉を使ったんです。「万世一系の神聖な存在」という強い表現を避けて、ちょっとした、お飾りというのは言い過ぎだとしても、天皇の地位を貶(おとし)めるというか、引き下げるために「象徴」という言葉を使った。受け入れた日本側もそうだったんでしょう。
ただ、そのことの解釈ですけどね。今になって、こういう憲法を残されたわれわれとして、どう解釈すべきかという問題になってくるんだけれども、先ほど言ったように、人間精神というのは象徴から離れられないということを強調すれば、むしろ、天皇の存在を貶められた、貶化(へんか)させられたのではなくて、むしろ、広く深く解釈したということになる。
そういう象徴のなかのひとつのありうべきケースとして、「万世一系の神聖な」という強い解釈もあるし、非常に弱い場合には単なるお飾りの制度という解釈もあるし、様々な解釈を許す総合的な概念として「象徴」という言葉が出てきたんだというふうにとらえるべきだと思うんですね。
少なくとも文化人類学であれ、心理学であれ、何であれ、様々な学問の成果を踏まえて言えば、「象徴」というのは非常にcomprehensiveな、包括的な解釈を許す概念だというふうに言わざるをえない》(『「日本国憲法」を読む・上』(イプシロン出版企画)、pp. 148-149)【続】