保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

和暦元号について(4) ~元号は国民統合の要~

2019年3月の「NNNと読売新聞社の全国世論調査」によると、普段の生活で元号と西暦では、元号の方を多く使っていると答えた人が41%、西暦が25%,どちらも同じくらいが33%であった。現実問題として、元号と西暦を使い分けるにあたって元号を用いる場面の方が多いということであろう。

 元号と西暦を使い分けるのは面倒だと考えるのは精神の弱さの表れである。英語にはアルファベットしかないが、日本語には漢字、ひらがな、カタカナがある。面倒だからとひらがなだけにしてしまえなどという日本人はおそらくいないだろう。日本人はこの面倒を甘受して豊かな言葉の恩恵に浴している。

 日本国憲法第1条に

天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

とあるが、天皇が国民をどうやって統合するのかと言えば、それは「元号」によってである。例えば、平成天皇の御代には、日本人は平成という時間を共に生きる。元号こそが国民統合の要(かなめ)なのである。

天皇制は、とくに明治維新以降、一世一元の元号制を採用してからは、歴史にたいして時代区分を与える大本の規範となった。人間が自分らの歴史にたいして与える時代区分は、人間が時間を意識する――ほとんど同じことだが、生が死に向かって進んでいるのを意識する――からには、時代にたいして人生観的の意味づけをはどこさずにはおれない。

つまり、象徴的(とされた)人物の(ということは天皇の)生涯によって、市民はある時代を区切り、それに独得の人生観的意味づけを暗黙のうちに共同して与える。たとえば、民族国家の成長期としての明治時代とか老熟期の平成時代というふうにである。

イギリスにおいてもヴィクトリアンとかエドワーディアンという言葉によって、これらの時代を共有した人々の共通性格を表すことは周知のところである。

 欧米に一般的な「世紀」という時代区分でも、人間の最長の生涯が百年間くらいであるということに託して、人生観的の意味を与えることもできる。たとえば、19世紀人とか20世紀人とかいったふうにである。しかし世紀は基本的には自然時間であって歴史時間ではない。象徴的人物の生涯にもとづかせるほうが、人間および社会にとって必須の時間の歴史性と物語性を定着させやすいのである。

 この意味で、元号天皇にたいする敬愛を高めるために必要とされるのではない。逆に、いわば「時間の制度化」としての元号によって天皇制が支えられているのである。

明治維新からの一世一元別により天皇性は日本人の「時間意識の制度化」を明白にし、戦後の象徴制により天皇制は日本人の、「超越的観念の制度化」を明確にしたといってもよい》(西部邁『わが憲法改正案』(ビジネス社)、pp. 136-137)【了】