保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

大津いじめ自殺判決について(3) ~家族は自殺を抑止する~

自殺には社会的要因も大きく関わっていると考えられる。社会学エミール・デュルケーム

《家族は、自殺の強力な予防剤であるが、家族がさらに強固に構成されていればいるほど、いっそうよく自殺を抑止することができる》(デュルケーム『自殺論』:『世界の名著47』(中央公論社)、pp. 147-148

と考えた。

《昔は、家族は、たんなる相互の愛情の絆によって結ばれた個々人の集まりではなく、むしろ抽象的、非個人的な統一性をそなえた集団そのものであった。それは、ありとあらゆる想い出をよび起こす先祖伝来の名であり、家族の館(やかた)、先祖の土地、伝統的な地位や名望、等々であった。そのすべては失われつつある。

時々刻々解体をつづけながら、別の時点で、まったく違った条件のもとに、まったく違った要素によって再形成されるような社会は十分な連続性をもたないから、個性的特徴をつくりだすことも、それ固有の、しかも成員たちが愛着をおぼえることのできるような歴史を生みだすこともできない。

それゆえ、かつて人々の活動の目的となっていたものが消滅していくのに応じて、人々がそれを新たなものによって埋めあわせていかなければ、生活のなかに大きな空洞が生じることは避けられない》(デュルケーム『自殺論』:『世界の名著47』(中央公論社)、p. 361

 戦後日本が家制度を廃止したことの負の側面の1つがここにある。封建主義の残滓(ざんし)として「家」が攻撃の的となった。大家族から祖父母が追い出されて核家族となり、昨今では「事実婚」だの「同性婚」だのと、マルクス共産党宣言』よろしく「家族解体」が止(とど)まる気配はない。こういった家族形態の変容が青少年の自殺にも少なからず影響を及ぼしているであろうことは想像に難くない。

 戦後は、「個の尊重」が声高らかに謳(うた)われ、集団が軽んじられがちであった。が、個人と集団はただ背反(はいはん)するものではなく、個を尊重するために必要な集団というものもある。

 家庭や地域社会、職場や国家というものは、個人を抑圧するものとして事あるごとに攻撃してきたのがマルクス共産主義思想であった。が、集団社会には、個人をただ束縛するだけではなく保護する側面もある。個を解放せよと集団社会をただ攻撃すれば、個がむき出しにされてしまうだけである。

《いじめの根絶には、いじめをする子供だけでなく、見て見ぬふりをする大人にも厳しい態度で臨むことが必要である》(220日付産經新聞主張)

 果たしていじめは<根絶>できるものなのだろうか。核廃絶を叫ぶのと同じく私はこのような綺麗事を言うことに虚しさを感じてしまう。綺麗事を言ってなくなるくらいならとうの昔になくなっていてもおかしくはない。大人が見て見ぬふりをせず厳しい態度で臨み続けることなど不可能である。学校をそんな息苦しい空間にしてどうなるのだろうか。【了】