保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

安倍首相の「悪夢のような民主党政権」発言に端を発する泥仕合について(1) ~「言論の自由」というもの~

2月10日の自民党大会で安倍首相が「悪夢のような民主党政権」と発言したことが波紋を呼んでいる。

 12日の衆院予算委員会岡田克也民主党代表が安倍首相に噛みついた。

岡田  先般の自民党大会で総理はあの悪夢のような民主党政権が誕生したと言われました。もちろん民主党政権時代の反省は我々にあります。しかし政党政治で頭から相手を否定して議論が成り立つのか。私たちは政権時代に、その前の自民党の歴代政権の重荷も背負いながら政権運営もやってきました。そのことを考えたら、あんな発言は出てこないはずだと思います。撤回を求めます。

安倍  まさに政党間で議論する。私は別に議論を受け入れていないわけではなく、先週も7時間を5日間ずっと議論させていただきました。みなさんは自分たちの政権の正当性であれば、いろんな場所で演説されたらいいんですよ。私は自民党総裁としてそう考えている。そう考えているということを述べる自由はまさに言論の自由なんですからあるわけでありまして。少なくともバラ色の民主党政権でなかったことは事実なんだろうと言わざるを得ないわけですが。(FNN PRIME 2019年2月13日 水曜 午前6:30)

言論の自由」を持ち出して反論するところは、左翼政治家裸足(顔負け)である。が、現行憲法を尊重するのなら、「言論の自由」も擁護しなければならない。

《良心の自由、言論の自由、結社の自由…(他人の)権利の尊重…等々。近代デモクラシーが作動し機能しうるために必要な部品(パーツ)のうち、何一つとして、人間生得(しょうとく)の感情と衝突しないものはない。

 たとえば言論の自由。他人が貴方を批判しようと非難しようと、黙ってこの意見にも耳を傾け、あの意見も尊重しなければならない。かつ、この反対意見の発表のために十分のチャンスを与うべく努力しなければならない。

 これは生得の不人情である。

 英国の大宰相兼ベストセラー作家ディズレイリーは、「人間は、媚態(びたい)(flattery こびへつらうこと)を好む動物である」と言った。誰だって批判されたり非難されたりするのは嫌だし、こんなことを公に主張するとは、まことにけしからん奴だという気になるだろう。日本人なんかとくにそうであって、公に批判でもしようものなら、十年の友情もいっぺんでさめて、仇敵みたいにいがみあうようになることが珍しくない。いや、たいがいそうなることは先刻ご存じのとおり。まして、見知らぬ者が批判でもしようものなら、良いも悪いもてんで開く耳をもたぬ。だから日本には、公の討論という土壊が出来にくい。

 「言論の自由」ということがすでに、これほどまで人情を逆撫(さかなで)する。

 しかし、いくら感情が昂(たか)ぶっても、そこをぐっと堪(こら)えなければならない。これには自制がいる。もちろん、この「自制」は、生れながら備わるものではあり得ない。教育、社会化(socialization 社会生活のために必要な規範、技術を習得すること)の過程において身につけなければならない。このように、「自然の人情を押えこむ」ための訓練(トレーニング)をしないことには、「言論の自由」ということは機能しえないのである》(小室直樹『日本の「1984年」―G・オーウェルの予言した世界がいま日本に出現した』(二十一世紀図書館)、pp. 79-81)

 小室氏の解説は何か極端な感じがしないでもないが、憲法第21条に言う「言論の自由」とはそういうものである。

 おそらくこの感覚に馴染めない日本人は少なくないだろう。西欧産の「言論の自由」という考え方を我々はどれだけ消化吸収できているのであろうか。【続】