保守論客の独り言

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秋篠宮殿下の大嘗祭発言について(2) ~権威と権力の二権分立~

天皇は「国政に関する権能を有しない」と憲法4条に定められている。このため、皇族は天皇に準じて、基本的に政治的な発言を控えるというのが習わしだった。

 その中で、秋篠宮さまはこれまでも天皇の負担軽減を図るために「定年制は必要」と述べるなど、皇室制度についてご自身の意見を明らかにしてきた。今回も宮内庁に意見を伝えたが「(相手は)聞く耳を持たなかった」と明確に述べている。

 秋篠宮さまは来年5月から皇位継承順位1位の皇嗣(こうし)になることが決まっている。発言が社会に与える影響は大きく、慎重さが求められる》(12月1日付毎日新聞社説)

 伝統に基づく天皇の存在が、後から定められた憲法によって制限されるというのは滑稽至極である。皇族が政治的発言を控えるべきなのは、皇族は政治に関わらぬのが伝統だからである。

《朝廷・幕府の併存とは、一種の二権分立といえる。朝廷がもつのは祭儀・律令権とも言うべきもので、幕府がもつのは行政・司法権とも言うべきものであろう。統治には、一種の宗教的な祭儀が不可欠であることは、古今東西を問わぬ事実である。(中略)

 …祭儀権と行政権は分立させねば独裁者が出てくる。この危険を避けるため両者を別々の機関に掌握させ、この二機関を平和裏に併存させるのが良い、と考えた最初の人間は、ユダヤ人の預言者ゼカリヤであった。近代的な三権分立の前に、まず、二権の分立があらねばならない。二権の分立がない所で、形式的に三権を分立させても無意味である》(イザヤ・ベンダサン日本人とユダヤ人』(角川文庫ソフィア)、pp. 74-75)

 鎌倉以降、権威と権力は分離されてきた。それが本来あるべき姿であったはずだが、明治以降この伝統は変調を来すこととなってしまった。それは天皇の政治利用という問題であるが、これについては後日詳しく述べたいと思う。

《平成の大嘗祭では、中心的な行事「大嘗宮の儀」の祭場建設を含め、費用は総額約22億5000万円に上った。秋篠宮さまは「身の丈に合った儀式」にすることが本来の姿とも述べている》(同)

 22億5千万円という金額を庶民感覚で見れば、途轍もない金額に見えようが、これが皇室の一大祭祀であるのだとすれば、どれくらいの金額が適切妥当なのかを言うのは簡単なことではない。が、日本は仮にも世界に冠たる経済大国なのであるから、それなりに予算を付けても罰(ばち)は当たらないと思われる。

 皇室行事は皇族のために行うものではない。神々や祖先に感謝をし、国の安寧と繁栄を祈るということは、回りまわってそれは国民一人ひとりのためのものでもある。1億2千万人の国民が20円ずつ提供すれば済む話である。<身の丈>に合わないなどと考える必要はない。

 殿下の発言を否定したいわけではない。それは私の本意ではない。そもそも殿下がこのような発言を公にせずに済むような体制がなかったのがおかしいのである。検討すべき皇室の問題は、皇位継承問題をはじめとして山ほどある。それを退っ引きならない状態になるまで放置していることが最大の問題なのだと思われる。

 吉田松陰曰く。

《宜(よろ)しく平生に講論して、時に臨みて誤ることなかれ》(『講孟劄記』:第16場 8月16日 第5章)【続】