保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

大学入試英語改革は教育破壊だ!(3)~無責任な政治は国を腐らせる~

経済活動が国境を越え地球規模に拡大した「グローバリズム」も行き過ぎが露呈し、「保護主義」へと揺り戻しが始まっている。そんな時、滑稽にも、「グローバリズム」に対応すべく英語教育改革が叫ばれている。「バスに乗り遅れるな」という肝心の「バス」の行先が変更されていることに文科省は気付いていないのだろうか。

《先んずれば人を制し、後(おく)るれば人に制せらる》(『史記項羽本記)

などと言って欧米に先んずれば先の大戦の悪夢が蘇ってしまうかもしれないが、これから問われるのは、民族、国家の独自性であり独創性である。英語がうまく話せるかどうかではなく、話す中身が問われるということである。

 時間は有限である。したがって、英語を話すことに時間を取られれば、他の学習時間が減ってしまう。つまり、英語を話すことに気を取られすぎるがあまり、底の浅い、薄っぺらな人間を作り出してしまうことになりかねないということである。感情を抑え理性的に物事を判断し、心象に流されず深く考える人間を育み育てることが健全な民主主義には不可欠である。

 さて、今回の入試改革における最大の問題は、入試で高得点を取ろうとすれば学校の授業だけでは不十分であろうから、予備校や塾、専門学校などにおける特別な対策が必要となり、家庭の経済格差が入試結果に反映されかねないということである。生徒個人が真面目にこつこつやっただけではどうにもならないような状況が出来(しゅったい)しないとも限らないのである。さらに、

《都市部に比べ、離島や山間地など遠隔地に居住する受験生は検定試験を受けたり、希望の検定を選んだりする機会が限られる。検定料が2万円を超える試験もあり、試験会場への交通費なども含め、経済的な負担が受験生に格差や不利を強いる可能性も十分想定できる》(10月21日付高知新聞社説)

 「頑張ったものが報われる」ことが公正な社会を築くために絶対必要であると私は考えるが、今回のような入試改革がなされれば、どれだけ教育にお金を投資したかが合否を決めるということになりかねない。そうなれば経済格差が世襲的に固定化してしまい、社会の活力は失われてしまうだろう。

 改革を号令一家ゴリ押しするやり方は、まさに「全体主義」である。特に、今回のように余りにも拙速に過ぎる入試改悪を止めようする政治家が誰も出てこないのはどうしたことか。

 「全体主義」のどこに問題があるのかと言えば、自ら「エリート」と認ずる一部の人間が一般大衆を恣(ほしいまま)制御しようとするところにある。それが間違いであることは共産主義ソ連邦の失敗でも明らかである。にもかかわらず、このような体制がいまだに残っているのはどうしてなのか。

 政治家は選挙によって責任が問われる。が、官僚は国民の審判を仰ぐことがなく責任を問われることがない。したがって、成否の分からぬ改革改変は、責任を負うことが出来る政治家が担わなければならない。にもかかわらず、政治家がこれを官僚に丸投げしてしまっては、政治家も官僚も誰も責任を取らないということになりかねない、否、これまで教育改革はそうなってしまっている。

 無責任な政治が横行すれば、国は腐る。【了】