保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

大学入試英語改革は教育破壊だ!(2)~英語が話せることを目標とする単純思考~

《グローバル社会では話す力がますます求められるだろうという、改革の背景は理解できる》(9月28日付東京新聞社説)

 非英語圏の日本において、果たして一般の日本人が今後どれほど<グローバル社会>に対応しなければならないというのであろうか。確かに「エリート」層は、話すことを含めて、今後ますます英語を駆使しなければならなくなるだろうことは想像に難くはない。が、同時に、大半の日本人にとって英語を使うのは非日常でしかないということも容易に想像できる。

 したがって、かつて「平泉・渡部英語教育論争」で平泉渉参院議員(当時)が主張したように、「エリート」層には徹底して英語を学習させ、一方で、一般の日本人には渡部昇一氏が主張したように、英語を話すことを含めそれが必要となった時に学習できるよう、従来通りしっかり基礎となる文法力を身に付けておくというのが妥当であろうと思われるのである。

《小学校での英語教育もこれから本格化するという段階だ。大学入試という「出口」で拙速に成果を求めるのではなく、義務教育から大学に連なる一連の教育の過程で、話す力をどう強化できるのか、授業の工夫や支援にまずは軸足を置くべきではないか》(同)

 入試改革のあるべき姿とは、小中高と積み重ねられてきた新たな教育実践の成果が大学入試という形で測られるというものであろう。が、今回の改革は、大学入試を変えることで現場の指導内容を無理矢理変えようとする、いわば「横紙破り」であり、自然の理に反して、低き所から高き所に水を流そうとするがごとくの横暴である。

文科省の説明では「読む・聞く・書く・話す」の4つの技能の重視を謳う高校学習指導要領に則り、その4技能を測ることが新しい制度の目的だということだ。ところが、それを提言した有識者会議の議事録などをよく読んでみると、早い話が「日本人は英語が話せないのが問題だ→その元凶は学校の英語教育にある→だから英語教育を変えなければならない→そのためには入試制度を変えることが一番効果的だ」という、一見もっともらしいが、実は至って短絡的な理由がその背景にあるようなのだ》(videonews.com 9/22(土) 21:47配信)

 ここには教育現場を見下した傲慢がある。文科省にも有識者会議にも、現場が混乱し、教師や生徒がどれほど振り回されているかということが分かっていない。おそらく彼らはそんなことには関心がないに違いない。

 繰り返すが、大半の日本人は今も見通せる将来も日常的に英語を話す機会はないだろう。にもかかわらず、英語が話せないことが問題だという立論自体が間違っているのである。英語を話せるようにすることだけが日本の英語教育の目的ではない。むしろ、英語学習を通して客観的に日本を知り、文化や言語を比較考察するといったことの方がどれほど重要であるか。【続】