一燈照隅(池内昭夫の日記)

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『新潮45』問題から「保守」を考える(2)~「保守」と「右派」の混同~

《安倍さんや周辺の杉田さんら自民党議員は「保守」を自認しています。10月号特集の筆者たちも「右派論客」と言われます。しかし、本来の保守の思想はそのようものではありません》(中島岳志<「新潮45」問題を考える>:毎日新聞 10/9() 16:47配信)

 私も明確に区分し切れていないので偉そうなことは言えないが、「保守」と「右派」の混同が気に懸かる。

 確かに安倍首相は、少なくとも現在の立ち位置は、「保守」とは言えない。「人づくり革命」「生産性革命」などと「革命」という言葉を不用意に使う人が「保守」であるはずがない。杉田議員も右寄りの立ち位置をとっているだけであって、「保守思想」的な発言や行動をとっているわけではない。ここまでは中島教授と異同はない。問題はその次である。

 『新潮45』10月号の特集「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」に寄稿した人たちを「保守」論客と言わずにどういうわけか「右派」論客と言い換えている。が、これだけでは中島教授が「保守」と「右派」をどう使い分けているのか分からないし、この後もその説明はない。

 「保守」と「右派」は重なる部分が少なくないにせよ、言葉が違う限り意味も違うと私は考える。「保守」と「右派」の最大の違いは、「時間軸」があるかないかであろう。「右派」は右か左か「横軸の価値」が問われるのに対し、「保守」は、文化や伝統といった、過去から現在に受け継がれ、未来に向けて引き渡される「縦軸の価値」が問われるという違いがある。

《18世紀後半の英国の思想家エドモンド・バークに始まる保守思想は、近代の人間観を疑うところからスタートしています。近代主義や左翼的合理主義は、人間を合理的な生き物とみなし、合理性を突き詰めていくことで世界は進歩し、何らかの完成された社会を形成できる--という考え方です。

 これに対し、保守思想は「人間は不完全だ」という発想に立ちます。人間は弱い。人間は間違える。だから理性で突き詰めてもほころびが出る。人間の社会はいまだかつて完全だったためしがないし、この先も完全なものにはならない。過去のある時期を絶対視する右派の原理主義に戻れず、かといって「進歩」という左派の未来への異様な楽観にも立てない。そんな状況で世界をうまく維持するためには、人々の積み重ねてきた暗黙知や良識を大切にしながら現状を少しずつ改めていく--それが保守思想です》(同)

 どうも腑(ふ)に落ちない説明なので、私なりに言い換えてみたい。ただ人間の頭の中だけで考えただけでは不完全極まりなく、これをより確かなものにするためには歴史の審判を受けなければならない。歴史の荒波の中で揉まれ、試行錯誤を繰り返し、現在に至ったもの、それが「伝統」と呼ばれるものであり、これを尊重するのが「保守」である。

 つまり、「理性」に対する過信を懐疑し、歴史に宿る「英知」に物事の判断基準を求める、それが「保守」ということになるだろう。【続】