保守論客の独り言

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柴山新文科相の教育勅語発言について(3)~開闢(かいびゃく)以来の日本を大らかに肯定するか否か~

《正文の冒頭からお読みになればおわかりの如く、この勅語は発布の時に至るまでの国民の歴史を、道徳の側面から見て大らかに肯定してをります。そしてその肯定された諸要素の精髄と目すべきものを(国体ノ精華)と呼び、それこそがまさに(教育ノ淵源)であると道破してゐるのであります》(小堀桂一郎東京裁判の呪い』(PHP)、p. 292)

 歴史が始まって以来の日本を戦前の暗黒時代も含めて大らかに肯定するのか否か。勿論、戦前の暗黒時代だけをとって肯定するのは難しいであろうが、そういう暗黒も歴史の大きな流れの中において受け止めるのかどうかが今問われている。

 敗戦後70年以上が過ぎ、様々な文献資料が公にされているにもかかわらず、いまだに戦前をただの「軍国主義」として否定的に捉えるのは知的怠慢の謗(そし)りを免れない。

《私(=フーバー元米大統領)はマッカーサーに、1945年5月にトルーマンに宛てた覚書の内容を話した。我が国は、この戦いの重要な目的を達成して日本との講和が可能である、と伝えたのである。マッカーサーもこの考えに同意した。(早い時期に講和していれば、その後の)被害はなかったし、原爆投下も不要だったし、ロシアが満州に侵入することもなかった。

私は、日本との戦いは、狂人(=ルーズベルト)が望んだものだと言うと、彼はそれに同意した。また1941年7月の日本への経済制裁は、ただ日本を挑発するだけであり、日本は戦うしかなかった。あの経済制裁は、現実の殺戮や破壊ではなかったが、それ以外の点では戦争行為であった。いかなる国であっても、誇りがあれば、あのような挑発に長いこと耐えられるものではない》(ハーバート・フーバー『裏切られた自由(上)』(草思社)、p. 475

 また、柴山昌彦・新文科相が<教育勅語には…普遍性をもつ部分が見て取れる>と言ったのは至極当然のことである。

《父母への孝養、兄弟間の友睦、夫婦の相愛、朋友間の信義、又恭倹と博愛、修学習業の勧め、智能の啓発、徳器の成就(徳性の練磨)。これ等はいづれも特に説明を要しない、言へば誰にでもわかる徳目で、且つ如何なる宗教的、或いは倫理説上の裏づけをも必要としない、つまりは宗派性・思想性を超越した教といふことになりませう。謂ってみれば人倫の普遍性への志向が打ち出されてゐるのであります。

 普遍性と言へば、キリスト教十戒、仏教の五戒にも万人の認める普遍性はありませう。そしてもちろん「教育勅語」に説く人倫の普遍性もそれらと根底に放て共通するものを有してをります。而して勅語の含む普遍性と宗教的戒律の示すそれとの間には、内容よりも先づ表現の様式に於いて決定的な違ひがあります。

お気づきでせうか。戒律といふものは抑々(そもそも)が(……すべからず)といふ発想に立つてをります。勅語の本文にはどこを見ても(……すべからず)といふ語法が一箇所も無い。この一事を以てして見ても、この勅語には戒律の性格が皆無だといふことがわかるでありませう》(小堀、同、pp. 290-291)

 が、教育勅語は明治時代に有効だったとしても、目的、位置付けが今とは異なるのであるから、これをそのまま現代に復活させるのは時代錯誤と言わざるを得ない。だから、柴山新文科相は<現代風にアレンジすれば>との断りを付けたのである。【続】