一燈照隅(池内昭夫の日記)

~天邪鬼(あまのじゃく)の独り言~

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柴山新文科相の教育勅語発言について(2)~教育勅語を否定する論理~

《根幹が国民主権と人権尊重に反するものを、どのようにアレンジしても、学校で使えるわけがない》(10月5日付朝日新聞社説)

 例えば、<父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互に睦び合い、朋友互に信義を以て交り、へりくだつて気随気儘の振舞をせず、人々に対して慈愛を及すやうにし、学問を修め業務を習つて知識才能を養ひ、善良有為の人物となり、進んで公共の利益を広め世のためになる仕事をおこし、常に皇室典範並びに憲法を始め諸々の法令を尊重遵守し>のどの部分が<国民主権と人権尊重に反する>と言うのだろうか。相手を貶(おとし)めるためならば、こういう嘘が平気で吐(つ)けるのは恐ろしい。

 そもそも道徳を考えるのに、<国民主権>だの<人権尊重>だのを持ち出すことが間違っている。道徳とは社会秩序を維持するための基礎基盤なのであって、個人を抑圧するものとして道徳を攻撃すれば、「アノミー」(無秩序)を招くことになりかねない。

 <一旦緩急アレハ義勇公(こう)ニ奉(ほう)シ、以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼(ふよく)ス>るのは、ある意味、当然のことである。要は、自分たちの国は自分たち自身で守るという当然のことを言っているに過ぎないからである。

 が、それが戦後日本では通用しない。国民の多くが、戦うことは良くないという「平和ボケ」に陥ってしまっている。たとえ危急の大事が起こったとしても、身命を賭すよう国が命ずるなどというのは以ての外なのである。

 1946(昭和21)年8月6日、GHQ教育部婦人教育担当のアイリーン・ドノバンがオア部長に送った長いメモには次のように書かれていた。

 「130語の漠字からなる勅語日本民族主義のマグナ・カルタ(大憲章)であり、軍国主著や超国家主義者の行動や理論の源になったものである」

「これら(=「忠君」・「親孝行」)は西欧で理解されているようなものではなく、封建的な概念であり、47浪士の盲目的な忠誠であり、この忠誠の下、全ての罪悪は許された。また、親子の愛については天皇崇拝の宗教に結びつき、愛国主義の宗教を作り上げた。教育勅語が日本帝国の教育の源だとすると、一体全体、“日本の教育哲学”とはなんだと問い返さざるを得ない。真実を追究する精神が入り込む余地が一体どこにあると言うのだろうか」

「より直接的な危険は“一旦緩急あれば義勇公に奉じ以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし”という言葉の中にある」

「日本人の道徳・倫理の目的は皇室の繁栄のためにだけある」

「これは、新憲法の精神である一個人の権利という考え方と完全に食い違うものだ」(西鋭夫『國破れてマッカーサー』(中央公論社)、p. 253)

 この偏見に満ちた皮相な物言いには呆れてしまう。が、多少強引に過ぎると言われようとも、GHQには二度と米国に歯向かわないように日本を弱体化しようとする目的があったのだから仕方のない発言ではあった。

 翻(ひるがえ)って、日本の文化伝統に対する無理解によるものなのか、それとも何かまた別の意図があるからなのか、GHQと同じ論理で教育勅語を否定する日本人が少なくないのである。【続】