保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

稲田元防衛相は保守ではなくリベラルである(2)

《保守とは本来、多様性を認めるものです…自分がすべて正しいとは思わず、色々な考えを聞いて賛同すれば考えを変える。それこそが、保守の姿だと思います》(朝日新聞DIGITAL 10/02 07:13

稲田朋美女史は言う。

 が、<多様性を認める>こと、それはすなわち「寛容」ということであり、これはむしろリベラルに属する考え方である。物事が多様化し価値が相対化することに対し懐疑の目を向けるのが保守の本質であって、「多様性を認める保守」というのがいかなるものであるのか私には皆目検討がつかない。

 <自分がすべて正しいとは思わず、色々な考えを聞いて賛同すれば考えを変える>というのも「弁証法」のような話であって、これも理性主義的な、つまりはリベラルな考え方の1つである。

《私は歴史認識の問題から政治家になったので、固定的なイメージで見られています。そこに居心地の悪さ、息苦しさを感じます。意見は違って当然のはず。保守の人がLGBT支援と言ってみたり、リベラルな人が東京裁判はおかしいと言ってみたり。多様な意見があることが、健全な民主主義ではないでしょうか》(同)

 南京事件「百人斬り競争」はでっち上げだとする訴訟に原告代理人の1人として加わったのが初めとされる。が、「百人斬り競争」が戦意高揚のために作られた記事であったことは明瞭であり、これに異議を唱えるのは保守・リベラルの別に関係はない。

 この作り話をシナから持ち帰り記事にした朝日新聞本多勝一が「リベラル」であるかのように装ったため、これを攻撃する稲田女史が「保守」であるという誤解が生じてしまっただけである。朝日新聞本多勝一はシナ側の用意した反日情報をそのまま垂れ流した「反日」なのであって、保守・リベラルの区別なく日本人であれば、これを批判するのは当たり前である。

 過去・現在・未来という具体的な「時の流れ」を重んじる保守は、それを捨象・抽象化し、ただ博愛・人道主義といった、地に足の着かぬ抽象概念を弄(もてあそ)んだLGB支援などというものに安易に与(くみ)するはずはない。

 事後法で人を裁く、文明社会にあるまじき「東京裁判」を批判するのもまた保守・リベラルとは無関係である。実際、東京裁判において日本人全員無罪を唱えたインドのパール判事は、紛(まご)う方なきリベラルである。

 <多様な意見があることが、健全な民主主義>だという考えも不十分である。意見はただ多様であるだけでなく良質なものでもなければ民主主義は健全なものとはなりえない。

 それどころか、戦後日本のような歴史が寸断された社会における民主主義が生者の専制を招きかねず、あるべき民主主義とは、死者の意見をも汲んだ、つまり、歴史・伝統に棹さすものでなければならないということを知る者こそ保守と呼ぶに相応しい存在である。

 誤解のないように付け加えれば、私は保守・リベラルを善悪の二元論で捉えたいわけではない。保守・リベラルに好悪の別はあっても善悪の別はない。保守は保守で良いし、リベラルはリベラルで良い。人間にも2つの目があるように、政治にも2つの立場があってよい。

 そもそも保守かリベラルかにこだわって政治を行うことが無意味なのである。話は逆様(さかさま)なのであって、行った政治が後から保守的かリベラル的かで分類されるというのなら分かる。が、自分が保守だとただ思い込んで、保守的に振舞おうとするような下らないことはやめるべきだということである。

 保守かリベラルかなどどうでもよい。自分の信条、信念に従って政治を行えばよい。保守かリベラルかは後から付いてくる。【了】