保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

新潮45「杉田水脈論文」その後(3)~飛んで火に入るなんとやら~

「ニュースウオッチ9」桑子真帆キャスターは次のように総括したという。

「浅はかとも言える言葉に、反発や嫌悪感を覚えた人は少なくないのではないでしょうか」(『新潮45』2018年10月号、p. 111

 桑子キャスターは杉田論文をちゃんと読んだ上でこう言っているのだろうか。<浅はかとも言える言葉>とは何を指しているのか。「生産性」という言葉なのか。それだけなのか。

<浅はか>と上から目線で言うのは容易い。が、他者を<浅はか>と批判するためには、まず自らが深く考えることが必要である。何がどう浅はかなのかをまとめるわけでもなく、ただ<浅はか>と切り捨てるだけでは、むしろ自らの浅はかさを曝(さら)け出すだけではないか。

<浅はかとも言える>と言ったのであって<浅はか>と断定したわけではない、と反論するのかもしれない。が、<とも言える>とは「と言っても間違いではない」という意味であるから五十歩百歩である。

 日本ではニュースキャスターがいかにも訳知り顔で一丁前の意見を述べようとする嫌いがあるが、その多くは持論というよりも番組の流れに棹さすだけの蛇足に過ぎないように思われる。今回の桑子キャスターも視聴者をただ煽(あお)ったに過ぎない。

 LGB(Tは除く)の問題は、LGBにも生きやすい「寛容な社会」を求めるというよりも、LGB固有の権利を勝ち取るための権利闘争的側面が強いように思われる。

《権利=法の目標は平和であり、そのための手段は闘争である。権利=法が不法による侵害を予想してこれに対応しなければならないかぎり―世界が滅びるまでにその必要はなくならないのだが―権利=法にとって闘争が不要になることはない。権利=法の生命は闘争である。諸国民の闘争、国家権力の闘争、諸身分の闘争、諸個人の闘争である》(イェーリング『権利のための闘争』(岩波文庫)、p. 29)

 権利を勝ち取るためには名分が必要である。LGBが「弱者」ということであれば、弱者保護を正義として権利闘争を行うことも可能である。だから弱者を装うのがこれまでの戦術であったと思われるが、かずと氏が指摘しているように、LGBが弱者だとは言えないとすれば、打つ手はなくなる。

 が、頼まれもしないのに、飛んで火に入るなんとやらで、反LGB派がとんでもない「敵失」を犯し火に油を注いでくれた。

《満員電車に乗った時に女の匂いを嗅いだら手が自動的に動いてしまう、そういう痴漢症候群の男の困苦こそ極めて根深かろう。再犯を重ねるのはそれが制御不可能な脳由来の症状だという事を意味する。彼らの触る権利を社会は保障すべきでないのか。触られる女のショックを思えというか。それならLGBT様が論壇の大通りを歩いている風景は私には死ぬほどショックだ、精神的苦痛の巨額の賠償金を払ってから口を利いてくれと言っておく》(小川榮太郎「政治は『生きづらさ』という主観を救えない」:『新潮45』2018年10月号、p. 88

 これでは杉田論文を援護するどころではない。むしろ杉田論文を支持する側は酷(ひど)い連中だとLGB派が世間に訴えるのに格好の材料を提供してしまった。案の定、出版元新潮社社長は

「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現が見受けられました…弊社は今後とも、差別的な表現には十分に配慮する所存です」

と謝罪に追い込まれた。【続】