保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

これからの日本の安全保障政策を考える(2)

大東亜・太平洋戦争は日本が侵略よろしく大陸に進出していったことによって起こった、だから日本が自制さえすれば、戦争は起こらない、というのが東京裁判における総括であり、戦後日本は憲法9条によって戦争を放棄した。

 確かに戦後日本は自ら戦争を起こすことはなかったし、他国が起こした戦争に巻き込まれることもなかった。それをもって憲法9条のおかげと考える人たちが実際少なくない。が、実際は日米安全保障条約に基づいて米軍が日本に駐留し睨みを利かせていたから他国が日本に攻め込んでこなかっただけである。

 その駐留米軍もいつまで睨みを利かせてくれるか分からない。そこで問題となるのが中国の動きである。入江隆則氏は言う。

《今日の中国には「世界列強への復讐(ふくしゅう)」という戦略がある…19世紀以後の中国は1840年にアヘン戦争が起こり、その半世紀後の94年に日清戦争が起こっている事実から明らかなように、世界の「列強」からいじめられてきた歴史がある。今日の中国がそれに対する「復讐」を意図している》(8月21日付産經新聞『正論』)

 日清戦争は大国日本が小国清を「いじめ」たものではない。むしろ大国と思われていた清が実は張子の虎でしかなかったことが暴かれた戦いであった。賠償として差し出した台湾は「化外(けがい)の地」である。

 その後日本が進出した満洲万里の長城の外の地であり、支那事変もシナ共産党が国民党と日本を戦わせて漁夫の利を得ようと画策したものである。よって日本が恨まれるような話ではないのである。

 見かけ上「復讐」ということはあっても、それは本質ではない。やはり歴史的にみて、シナの拡大主義はDNAに刻まれていると言うべきである。

 そんな中にあって、もし在日米軍が撤退するようなことがあれば、日本は中国に呑み込まれかねないのである。

 ここで重要なことは極東アジアにおいて中国の侵略慾を高めるような「力の空隙(くうげき)」を作らないことである。平和は「力の均衡」によって保たれるのであって、南沙諸島の顛末(てんまつ)を見れば明らかなように、こちらが敵対する意思がなければ攻めてこないなどというのは平和呆けの「空想」に過ぎない。

《中国に対抗できる国は、東アジアでは日本しかないことを世界の人々は知っている。その期待を裏切ってはならない》(同)

とは、戦前の「暴支膺懲(ぼうしようちょう)」(暴虐な支那を懲らしめよ)というような話ではない。東アジアにおける中国の膨張を抑えられるのは日本だけだということである。勿論、日本が単独で出て行く必要はない。米国の手を借りて、東アジアの「力の均衡」を保てば良い。

 が、これまでのように米国におんぶにだっこでは済まなくなってもきている。そのことに目を瞑(つむ)り、耳を塞(ふさ)いでいる場合ではない。(了)