《世界は目下、歴史的な大転換期に遭遇している。何からの転換かといえば、第二次世界大戦の長かった「戦後の時代」からの転換である。むろん「戦後は終わった」くらいのことなら、何年も、いや何十年も前からさんざん言われてきたことではある。しかし、当時の人々の目には「戦後」が終わったことは漠然と見えてはいても、その後に何がくるのかが必ずしも判然としていなかった。
それがやっと見えてきたのがこの数年間の情勢であり、その意味ではやっと人々の目に「ポスト戦後」の姿が映じてきたようにみえる。それは世界有数の大国が、自分自身の内部に回帰していく時代として現れていると思う》(「頑健な日本」の姿勢を見せよ:8月21日付産經新聞『正論』「戦後73年に思う」)
簡単に言えば、「パックスアメリカーナ」(アメリカによる平和)の時代が終わりを告げているということである。
「世界の警察官といった愚行は一切、やめる」とトランプ米大統領も言っているように、最早米国には世界秩序を維持するだけの余力はない。それどころか、「米国第一」ということでかつての「モンロー主義」に回帰しようとしているかのようである。
当然、このことは日米安全保障条約にも少なからず影響を及ぼすに違いない。
《直ちに在韓米軍を引き揚げるわけではないにしても、徐々にそういう方向にアメリカが動いていくことは確かだと考えなければならない。日本としても「アメリカ抜きの世界」の安全保障を今から考えておかねばならないだろう》(同)
私はこのような消極的な言い方は好まない。やはり、「自分の国は自分で守る」のが筋であって、戦後日本がそのことを怠ってきたことを率直に認めるべきである。
勿論、「自分の国は自分で守る」といえども、憲法9条がこのまま存続する限りその体制を築くことは叶わない。自衛のための組織を持ち、自衛のための活動が出来るように憲法の制約を取り除くことが必要となる。
現在安倍晋三首相は自衛隊を憲法に明記すべく舵取りを行っているけれども、私はそれでは不十分だと考える。最低限9条2項は削除すべきである。それでは国会議員の3分の2および国民の過半数の賛成が得られないということで、現項目はそのまま残して自衛隊保持のみを追記しようということなのであるが、このような曖昧さの残るやり方ではとてもじゃないが自分の国を自分で守ることなど出来ないだろう。
なすべきは憲法改正という弥縫策ではない。私は自主憲法制定を飛び越えて一旦現行憲法は廃棄し、英国のような「不文憲法」の形をとるべきであると思っている。(続)