保守論客の独り言

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藤谷イタリア学会会長の菅首相批判について(3) ~「民主主義は多数決を捨てること」という暴言~

藤谷道夫イタリア学会会長は突拍子もないことを言い出す。

《民主主義は多数決ではなく、逆に多数決を捨てることです》(東京新聞2021年1月5日06時00分)

 多数決を捨てて、どうやって物事を決しようと言うのだろうか。

《現代の民主主義はロゴス(言葉、論理)主義であるべきです。論理に従って議論し、たとえ少数派であってもより正しく合理的な方が勝つ。数ではありません。議会は、そのためにあります》(同)

 が、物事は理屈だけで片付けられない。合理主義はそのことを甘く見過ぎている。

 マイケル・ポランニー的に言えば、知識は大きく、言葉で説明できる「形式知」と、経験的に使っているが簡単には言葉で説明できない「暗黙知」とに分けられる。これを氷山に喩えると、目に見えている「氷山の一角」が「形式知」、目に見えない水面下が「暗黙知」に当たる。

(「暗黙知」:ウィキペディア

 氷山の目に見える部分は全体のおよそ9分の1と言われているが、「暗黙知」も「形式知」を遥かに凌駕する。言い換えれば、理性に基づいて合理的に判断できる部分はごく限られるということである。

《世に謳われた近代科学の目的は、私的なものを完全に排し、客観的な認識を得ることである。たとえこの理想にもとることがあっても、それは単なる一時的な不完全性にすぎないのだから、私たちはそれを取り除くよう頑張らねばならないということだ。しかし、もしも暗黙的思考が知全体の中でも不可欠の構成要素であるとするなら、個人的な知識要素をすべて駆除しようという近代科学の理想は、結局のところ、すべての知識の破壊を目指すことになるだろう。厳密科学が信奉する理想は、根本的に誤解を招きかねないものであり、たぶん無惨な結末をもたらす誤謬の原因だということが、明らかになるだろう。

 暗黙的認識をことごとく排除して、すべての知識を形式化しようとしても、そんな試みは自滅するしかない》(マイケル・ポランニー『暗黙知の次元』(ちくま学芸文庫)高橋勇夫訳、p. 44)

 さらに、「たとえ少数派であってもより正しい方が勝つ」と言うのも正しくはない。人間である限り、誰も<正しい>と断定することなど出来ないからである。だから議論を通じて説得し、自ら多数派と成るべく努める。それこそが議会制民主主義というものである。

《現在の政治に対する批判的な意見が、たくさんあることが、それ自体、民主主義なんですから。少数意見を保障するのが民主主義です。しかし、未来をつくるためには、一つ一つが小さくとも、全体として大きな流れにならなくてはならない。少数意見がいつかあるとき、多数意見にとってかわる。社会が変わる。それが民主主義のいいところでしょう》(加藤周一、凡人会『いま考えなければならないこと』(岩波ブックレット)No. 855、p. 63)

 間違ってはならないのは、多数決を捨ててしまっては無限の議論に陥り、永遠に結論は出せないということである。

《拙速に多数決で決めて間違うより、じっくり考えて正しい道を選んだ方がいい。多数決が正しいなら、天動説が正しかったことになります》(東京新聞、同)

 言うのも馬鹿馬鹿しいが、多数決がすべて正しいわけでもなければ、すべて間違っているわけでもない。つまり、多数決は当座の判断に過ぎず、

「過ちては則(すなわ)ち改むるに憚(はばか)ること勿(なか)れ」(論語:子罕第9)

と考えておけばよいだけの話である。

《「間違うのが人間だ」というローマ人のことわざがあります。間違うことから逆算して考える。イタリアには原発が1基もありません。チェルノブイリの事故の後で全部やめました。自分たちは間違う可能性があると考えたからです》(東京新聞、同)

 が、<自分たちは間違う可能性がある>と言うのなら原発を全廃したことも間違っている可能性はないのか。

《議事録も取るのが当たり前。失敗したら、それを振り返って参考にする。日本には無謬主義がはびこっているため、隠蔽や改ざん、破棄が起きる。

 日本はローマやイタリアから、まだ学ぶべき点がたくさんあると思います》(同)

 が、そのイタリアはEUの「お荷物」と化している。はて、それは一体何故なのだろうか?【了】

藤谷イタリア学会会長の菅首相批判について(2) ~偏見の表出~

《公務員は国民全員の利益のために働く。政権が間違った判断をすれば、それを国民のために批判することは、むしろ公務員の義務である》(「日本学術会議会員任命拒否についてイタリア学会による声明」)

 これはその通りである。が、問題は、政権の判断が間違っているということで批判するのではなく、それがイデオロギー的批判にしか見えないところにある。

 が、私はイデオロギーの違いから政権を批判してはならないと言っているのではない。それなら政府機関を離れて自由に言えばよいと言っているだけである。政府機関内で、自分の思想信条を優先し政権批判するのは「甘え」でしかないのではないかと思うだけである。

菅首相憲法23条が保障している「学問の自由」の意味を理解していない》(同)

 理解していないのは藤谷会長の方ではないか。

《「学問の自由の保障とは、学者が学問的良心に従って行なった言動の評価は、まずは学者どうしの討論に委ね、最終的には歴史の判断に委ねるべきであり、間違っても《時の権力者》が介入すべきではない、ということである。」(小林節慶應義塾大学法学部名誉教授)》(同)

 確かに<学問>は自由である。が、<学問>研究で得られたことを公に発表するのは<学問の自由>の範疇を越えている。これは<表現の自由>と言うべきものであろう。

《「今回、菅首相は、特定の学者の言動について《広い視野を持っているか》《バランスの取れた行動であるか》について自分の権限で判断したと告白し、その結果、《国の予算を投じる機関(の構成員)として国民に理解される存在ではない》と認めたのである。問題は、仮に菅氏が高い実績のある学者であったとしても、同時に、《首相》という権力者の地位にある間は、そのような判断を下す《資格》が憲法により禁じられている》(同)

 そのような禁則があるなどということは初めて聞いたが、それは憲法のどこに書かれているのか。

憲法63条は「答弁または説明のため出席を求められた時は、国会に出席しなければならない」と義務付けている。この趣旨について政府は「首相らには答弁し、説明する義務がある」(1975年の内閣法制局長官)と見解を示している》(同)

日本国憲法 第63条 内閣総理大臣その他の国務大臣は、両議院の一に議席を有すると有しないとにかかはらず、何時でも議案について発言するため議院に出席することができる。又、答弁又は説明のため出席を求められたときは、出席しなければならない。

 つまり、63条は<議案>についての答弁又は説明であって任命拒否の問題とは関係がない。

《科学分野の基礎研究の予算は削られ続ける一方で、軍事研究には潤沢な傾斜配分がなされる今の日本にあって、また軍事研究に手を染めない学術会議の方針を苦々しく思う自民党政権においては、杞憂で終わらないことを心得ておく必要がある》(同)

 これは「偏見」である。また、軍事研究を拒否するために研究が制限され、研究費も不足した学者がシナの「千人計画」に手を染めるなどということも起こっている。日本の軍事研究は拒否するが、シナの軍事研究は協力する親中学者の存在も噂されるところである。【続】

藤谷イタリア学会会長の菅首相批判について(1) ~的外れの声明~

イタリア学会の藤谷道夫会長が「日本学術会議会員任命拒否についてイタリア学会による声明」を出し、菅義偉首相を批判した。これを東京新聞は、

日本学術会議の会員任命拒否をめぐるたくさんの抗議声明の中で、博識に裏打ちされた豊かな表現で異彩を放っていたのが、イタリア学会の声明だった》(東京新聞2021年1月5日06時00分)

と持ち上げる。が、私にはこの声明文が的外れにしか思われない。

日本学術会議が推薦した第25期会員候補者105名のうち、6名が菅総理によって任命されなかったことについて、明確な理由説明はなく、説明の要求を斥けることは学問の自由の理念に反すると同時に、民主主義に敵対するものであり、これに断固として異議を唱えます》(「日本学術会議会員任命拒否についてイタリア学会による声明」)

 複雑な言い方をしているので的を絞り難いのだが、おそらく任命拒否の理由を説明しないことを問題にしているのだと思われる。が、だとすれば、どうしてそれが<学問の自由の理念に反する>のかが分からない。

菅首相は「(学術会議の会員は)広い視野を持ち、バランスの取れた行動を行ない、国の予算を投じる機関として国民に理解されるべき存在であるべき」だと述べた。これをテキスト解釈にかけると「国の税金を使っている以上、国家公務員の一員として、政権を批判してはならない」という意味になる》(同)

 が、果たしてそのような<意味>になるのだろうか。要は、「頂門の一針」のごとく急所を衝(つ)き、戒(いまし)めるというのらいざしらず、反権力よろしくただ政府批判を繰り返すのだけなら、政府機関を離れてやってくれ、ということなのではないか。だったら学術会議を民営化すればいいだけの話である。民営化すれば人事も自由だし、政府批判も自由である。

《2つの大きな誤謬(ごびゅう)が隠されている。学問は国家に従属する《しもべ》でなければならないという誤った学問観であり、国家からお金をもらっている以上、政権批判をしてはならないという誤った公民観である》(同)

 今更ながら「人間というものは、自分が見たいようにしか見えないものだ」とつくづく思ってしまう。学問は独り学術会議内だけで行われているものではない。任命拒否という形で<国家>が学術会議に介入したということであっても、学術会議外の学問には何の関係もない。また、学術会議外の大学人も<国家>から資金援助されているが、だからといって政権批判してもお咎めはない。問題は、学術会議が政府機関であり、政府を扶翼(ふよく)すべき立場にあるにもかかわらず、自らのイデオロギーによって政府批判を繰り返すことにある。

《学問は、国家や時の権力を超越した真理の探求であり、人類に資するものである。与党に資するものだけを学問研究とみなすことは大きな誤りである。学問研究によって得られる利益は人類全体に寄与するものでなければならず、時の政権のためのものではない》(同)

 随分大きく出たものだ。藤谷会長自ら研究している学問も<人類全体に寄与するもの>だと思っているのだろうか。そこまで言うのは烏滸(おこ)がましいと思うのが常識というものだろうが、藤谷会長は余程自信がお有りなのだろう。

 <国家や時の権力を超越した真理の探求>と言いながら、時の政権に歯向かい、特定機密保護法や安保関連法に反対声明を出すのは辻褄が合わない。反対声明は学問とは関係ないと言うのかもしれない。だったら<学問の自由>云々という話でもなくなってしまう。【続】