保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

難航する英EU離脱について(2) ~英国の二枚腰~

《29日に迫っていた英国の欧州連合(EU)離脱期限の延期が下院で決まった。しかし、打開策は見当たらない。続々判明する離脱の弊害。民意を問い直すことこそ、民主主義の本分ではないか》(3月16日付東京新聞社説)

 状況次第で猫の目のように変わりかねない<民意>を繰り返し問うことが<民主主義の本分>なのか。それが<本分>の<民主主義>など謂わば「ぽんこつ」である。

 たとえ高度な政治問題であっても国民一人ひとりがそれなりの「一家言」を有しているというのであれば、民意を仰ぐことにも意味なしとはしない。が、多くの国民の議論はおそらくは「床屋政談」の域を出ず、無責任であるがゆえに気楽に投じられた賛成ないし反対票の多寡に国家の命運を委ねるなどとすれば、そこには少なからず「衆愚政治」の臭気が漂わざるを得ない。

《EU下では自由な往来が保障され、平和や利便を享受していた。その恩恵を失う見立てが甘いまま離脱を強行しようとして、無理が生じているのではないか。

 国民投票時には「EUに払っている分担金を社会保障に回せる」など根拠のないキャンペーンが、離脱をあおった。

 しかし、離脱で人や物の流れは滞る。部品調達がスムーズにできず企業の英国外流出が進み、食料や医薬品が手に入らなくなり生活も直撃を受ける-こうした離脱の弊害やリスクはあまり論じられなかった。もしくは、誰かがなんとかしてくれるだろうと楽観していた。そして、今の袋小路である》(同)

 何事にも正負両面ある。だから英国のEU離脱も難航しているのである。それを離脱における負の側面ばかり強調し、離脱が間違いであるかのように誘導しようとするのはなぜか。

 ここには「コスモポリタニズム」(地球市民主義)思想が見え隠れする。国境を取り払い、一色に染め上げれば、平和な共同体を築くことが出来る。その実験場として欧州がある。

 が、その実験は奏功しているのかと言えば、問題は山積していると言わざるを得ない。ドイツがかつての勢いがなくなり、英国が離脱となれば、後は中国頼みということになるのも無理はない。が、これが「諸刃の剣」であることは言うまでもない。

《ブレア元首相は「他の方法が尽くされたのなら再投票こそ論理的だ」と訴える。これに対し、メイ氏は「民主主義を信じた大勢の人たちに民主主義を届けられなくなる。政治の清廉を取り返しがつかないほど傷つける」として一貫して否定的だ》(同)

 このメイ首相の意見から私は、「英国の民主主義、いまだ死せず」という印象を受ける。おそらく民主主義を大切なものと考える風土がこのように言わせしめているのだろう。英国の醜態ばかりが取り沙汰される中で、まだまだ捨てたものではない。【続】

難航する英EU離脱について(1) ~国民投票に決定を委ねたツケ~

《英国議会が欧州連合(EU)からの離脱を巡る採決で、否決や修正を重ねた揚げ句、離脱の延期を決めた。この結果、英政府はEUに対し今月29日に予定された離脱日の延期を要請することになった。

 EUが受け入れれば、経済や社会の混乱を招く「合意なき離脱」はとりあえず回避される》(3月16日付毎日新聞社説)

 当面「合意なき離脱」という最悪の事態は回避できたにせよ、離脱に際しての根本的な障害の除去の目途が立ったわけではない。

《障害となっているのは、英領北アイルランドアイルランドの国境管理の問題だ。

 離脱協定案では、この問題を解決できない場合、英国がEUとの関税同盟にとどまり続けることから、強硬離脱派は「主権の完全回復ができない」と反発した。

 国民投票の際は、有権者に明確に示されていなかった争点だ。専門知識を踏まえた議会での慎重な討議ではなく、国民投票に決定を委ねたツケは大きい》(3月16日付読売新聞社説)

 議会における離脱賛成派の意見と反対派の意見が一定出尽くし、それぞれの意見が拮抗し前へ進めなくなった場合、間接民主制における禁じ手としての「国民投票」を行うということは最終手段として有り得なくもないのかもしれない。

 が、ただ賛成派、反対派双方の説得力の欠如を補おうと安易に民意を借りようとするのは「議会制民主制」の自殺行為である。英国のEU離脱という複雑な問題を"pro or con"(賛成か反対か)の単純な二択で国民に問うてどうなるというか。

《深まった混迷の根本的原因は、英国政治の機能不全にある。

 メイ首相がEUとの折衝の末、アイルランド国境問題で修正を加えた離脱協定案は、「完全な主権回復」を譲らぬ党内の強硬離脱派の造反で葬られてきた。退陣論はあるが、保守党議員が様子見を決め込み、火中のクリを拾う気概ある次のリーダーは出てこない。

 有効な代案を示せない野党・労働党のコービン党首の信任も落ちている。1月末の英世論調査によれば、8割超は「政治支配層全体が国を誤らせた」と答えた。政治家は英国の未来より党利党略を優先させている。そう国民は愛想を尽かしているのではないか》(3月16日付産經新聞主張)

「政治支配層全体が国を誤らせた」とは言っても、その政治家を選んだのも国民である。つまり、現在の英国の混迷は、独り政治家だけにその責を帰すべきものではなく、国民国家全体の問題と見做(みな)すべきものである。否、国民自身の不作為がこのような事態を招いたのだと考えなければ最終的な問題の解決には至らないのではないか。【続】

大津いじめ自殺判決について(3) ~家族は自殺を抑止する~

自殺には社会的要因も大きく関わっていると考えられる。社会学エミール・デュルケーム

《家族は、自殺の強力な予防剤であるが、家族がさらに強固に構成されていればいるほど、いっそうよく自殺を抑止することができる》(デュルケーム『自殺論』:『世界の名著47』(中央公論社)、pp. 147-148

と考えた。

《昔は、家族は、たんなる相互の愛情の絆によって結ばれた個々人の集まりではなく、むしろ抽象的、非個人的な統一性をそなえた集団そのものであった。それは、ありとあらゆる想い出をよび起こす先祖伝来の名であり、家族の館(やかた)、先祖の土地、伝統的な地位や名望、等々であった。そのすべては失われつつある。

時々刻々解体をつづけながら、別の時点で、まったく違った条件のもとに、まったく違った要素によって再形成されるような社会は十分な連続性をもたないから、個性的特徴をつくりだすことも、それ固有の、しかも成員たちが愛着をおぼえることのできるような歴史を生みだすこともできない。

それゆえ、かつて人々の活動の目的となっていたものが消滅していくのに応じて、人々がそれを新たなものによって埋めあわせていかなければ、生活のなかに大きな空洞が生じることは避けられない》(デュルケーム『自殺論』:『世界の名著47』(中央公論社)、p. 361

 戦後日本が家制度を廃止したことの負の側面の1つがここにある。封建主義の残滓(ざんし)として「家」が攻撃の的となった。大家族から祖父母が追い出されて核家族となり、昨今では「事実婚」だの「同性婚」だのと、マルクス共産党宣言』よろしく「家族解体」が止(とど)まる気配はない。こういった家族形態の変容が青少年の自殺にも少なからず影響を及ぼしているであろうことは想像に難くない。

 戦後は、「個の尊重」が声高らかに謳(うた)われ、集団が軽んじられがちであった。が、個人と集団はただ背反(はいはん)するものではなく、個を尊重するために必要な集団というものもある。

 家庭や地域社会、職場や国家というものは、個人を抑圧するものとして事あるごとに攻撃してきたのがマルクス共産主義思想であった。が、集団社会には、個人をただ束縛するだけではなく保護する側面もある。個を解放せよと集団社会をただ攻撃すれば、個がむき出しにされてしまうだけである。

《いじめの根絶には、いじめをする子供だけでなく、見て見ぬふりをする大人にも厳しい態度で臨むことが必要である》(220日付産經新聞主張)

 果たしていじめは<根絶>できるものなのだろうか。核廃絶を叫ぶのと同じく私はこのような綺麗事を言うことに虚しさを感じてしまう。綺麗事を言ってなくなるくらいならとうの昔になくなっていてもおかしくはない。大人が見て見ぬふりをせず厳しい態度で臨み続けることなど不可能である。学校をそんな息苦しい空間にしてどうなるのだろうか。【了】